雑誌のインタビュー記事を校正していてびっくりするのは、自分の意図していない内容がいとも簡単に折り込まれていることです。まあ、ある程度は仕方がないとはいえ、ものすごいフィクション性を感じます。
「大学への異動にいっぺんの迷いもためらいもなかった、、、」
いやいや、迷いまくり、ためらいまくりましたよ。
「壮絶な日々の中で貴重な指針をつかんだ満足感が、笑顔の端々ににじむ、、、」
べつに壮絶な日々なんて送ってないし、満足感なんて一度も抱いたことはないなあ。ぼくは飢えて、乾いています。今の自分に常にとても不満です。
ぼくの周りには、「ぼくはちゃんとやっています」と声高に主張する人たちはいます。が、そういう人間に「ちゃんとやっている人間」は一人もいない。
「ぼくだって努力しているんです」とも言われます。でも、だれだってみんな努力をしているのです。自分なりにベストを尽くしているのです。ベストを尽くすのは前提であって目的ではないのです。
すくなくとも、プロは一所懸命やっていることを自己正当化の根拠にしてはいけないと思います。「ぼくだって誰よりも一所懸命練習しているんです」と打率の上がらない打者は口が裂けても言わないはずです。
ちゃんとやっている人は、今の自分に絶対に満足できない、乾いた、飢えた人たちなのだから。満足した瞬間に、大きなものが失われてしまうのだから、、、これは根源的なパラドックスなのです。
結局の所、人間とは自分の耳に入れたい情報しか耳に入れない存在なのでしょう。逆にリスク下においては、そのような聞き手の恣意性を十分に勘案しておかないとうまくいかないのでしょう。「ちゃんといったつもりです」では通用しないのです。
「19時までには参ることができるよう、最善を尽くします」
「じゃあ、19時には絶対にお見えになるのですね」
「いえいえ、そうは言いませんでした。、、、最善を尽くす、といったのです」
これは最近経験したこと。本当に、人間とは自分の都合の良いようにしか言葉を解釈しないようですね。
ある新聞社の取材
「先生は、新型インフルエンザについて国民はどのくらいリスクの意識を持っておいた方がよいと思いますか」
「人の意識は、その人が決める問題だと思います」
「、、、、」
僕たちはリスクについて、情報を開示することができるでしょう。何が怖くて何が怖くないのか説明することもできるでしょう。でも、今あるリスクをどうとらえるべきか。それは各人各様であり、メディアや国や専門家が、「このくらい怖がりなさい」と上から目線で規定すべきものではないはずです。
なるほど、自動車事故を怖がって家から一歩も出ないでひきこもることは極端に不健全な態度でしょう。家からででてくれば、よい。自動車事故などありえない、とシートベルトもせず、脇見運転で70kmオーバーも極端でしょう。もうすこしリスク意識をもったらよい。けれども、その間は大抵グレーゾーン。自動車事故と日常生活の利便性はトレードオフの関係にあり、トレードオフの関係にしかないのです。それが、リスクとつきあっていく基本中の基本なのです。だから、リスク0%かリスク100%を目指さない限り、その間のどの辺に線を引っ張るかは、各人で決めるしかないのです。僕たちにできるのはその判断の根拠になる情報を提供するだけ。どう飲み込むかは、その人次第。その時に大切になるのが、言葉に対する感受性。
自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ
茨木のり子
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