現在の抗菌薬運用や感染症診療に関して、厚労省(旧厚生省)各部署やその周辺機関(PMDA)のもたらした影響は大きいと思います。その役割については功罪あると思いますが、私はこれら官僚の方々への個人的な友情や敬意をもっている一方で、全体的には、あるいは組織としてはネガティブな評価のほうが大きいです。有り体に言えば、彼らが足を引っ張らなけらば、日本の感染症診療は世界のレベルからこんなに取り残されることはなかったでしょう。もちろん、彼ら「だけ」が悪いのではなく、私も含めて関係者全てが共有する問題なのですが。
で、今回は診療報酬のおさらいです。テキストに使ったのは、坂口志朗氏の「武見医師会長体制の確立」(通史 日本の科学技術第三巻)です。
・第一次世界大戦以降の社会不安
・政府、医師会との診療契約 医師ー保険者ー患者という新しい関係
この辺は、実は米国のマネジドケアを想起させます。実際、保険経済が赤字になると保険者は診療行為をコントロールするようになります。今でもそれっぽいことをやっている地域もあるようですが。
・自由診療主体だった日本の医療は第二次世界大戦時にはほとんど皆保険状態に。
・戦後、被保険者が激減。医師会もGHQに解散させられていた。
・これまで医師会に依頼していた診療報酬の議定を「社会保険診療報酬支払基金に」。1949年ーー>マネジドケアを思わせる制限医療のはじまり。医療費抑制
・1950年、中央社会保険医療協議会(中医協)誕生。朝鮮戦争で物価上昇し、診療報酬引き上げ要求。保険者代表の健康保険組合連合会(健保連)と対立。
・1957年 武見太郎医師会長に。「制限医療」を嫌い、現物給付・出来高払いにおける医師の自由裁量権を主張する。ーー>制限医療を目指す厚生省・健保連と対立。他方、医薬品産業などとの癒着も
・1961年 国民皆保険の再達成
・1973年 老人医療費無料化
・病院数増加、病床数増加。しかし医師は不足。1970年秋田大学医学部発足まで新設医大は認められていなかった。ーー>医師の相対的な不測で社会的地位は向上(?)
・武見体制は高度成長といっしょになって医療費増大ー>社会保険の赤字ー>国庫負担増額ー>国家財政圧迫というサイクルに。薬漬け、検査漬けの悪習もこのとき広がる。
・武見時代の「医療内容の改善は医学会に任せるべき」という主張は、厚生省や健保連からの規制や制限を否定する一方で、国民の声にも耳を貸さなかった側面もある、、、というのが坂口氏の見解。
・高度成長の終焉、オイルショックで医療費の伸び率が国民所得のそれを上回る。
・医師会は表面上は学術団体と謳っていたが、武見体制の実態は権益団体、ロビー団体であり、国民もそのように認識するようになった。ーー>開業医の地位の低下に?ー>実質的に開業医の団体である医師会の地位も武見体制の終焉と共に低下
・勤務医の比率増加。
しかし、医師会とは一線を画していた勤務医も代替足る発言ツールを持たないまま、病院中心になった日本の医療や医学を引っ張っていく牽引役になる一方、そのひずみや矛盾もぐだぐだに抱えていくようになり、、、というのが現在の状況でしょうか。
私個人は、厚労省や健保連の非科学的な制限医療が現場を困られているのは事実で、武見の言った「厚生省の官僚など医学を学んでいない者が診断や治療の方法や金額を決めないで、医学会に任すべきである」という考え方(まあ、金額はともかく方法の部分には)には大きく共感を覚えます。でも、武見体制時代の方法論は現代、とうてい選択できないでしょうし、するべきでもないでしょう。武見体制のルサンチマンを引きずった厚労省が財務省のプレッシャーも合わせて現在の管理体質を抱くようになった、、、という解釈が正しいかどうかは知りませんが、さて、この国はどこへ行く、、、、
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