「現代思想の冒険」(ちくま学芸文庫)において竹田青嗣は、人間は自分たちのある〈世界像〉を思い描き、その〈世界像〉の中で他者との関係性を結んでいく、という意味のことを(たぶん)書いています。「〈世界像〉の本質は、それが個人を〈社会〉に関係づけ、彼を社会的存在として生かしめるという点にある」のです。ところが、自分が抱えている〈世界像〉や価値観を我々は当然のものと見なし、それを問い直してみることなどありません。この本では、アーサー・ミラーの「セールスマンの死」というドラマのエピソードを紹介しています。そこでは、ある父親が商業的な成功こそが人間の価値である、という〈世界像〉を有しているのですが、これを無能なセールスマンである息子に押しつけようとします。父親がその価値観さえ捨ててしまえば家族たちは和解できるのですが、彼はそれをどうしても捨てようとしません。「彼の現実の存在と、彼の価値観が大きな確執を生じているのである」のであり、こういう事態に直面して、ある人の〈世界像〉が生きづらさをもたらすのです。
前置きがやたら長くなりましたが、大学病院なんかにいると、CRP絶対依存の〈世界像〉が作られているなあ、と感じることが珍しくありません。そこでは、患者がよくなっているのにCRPが下がらない、どうしよう、と悩む医師がおり、患者はつらそうだけどとりあえずCRPは高くないしな、とほっと胸をなで下ろす医師がいます。おそらくは、それは何らかの過程において徐々にその医師の中で形成された〈世界像〉なのでしょう。この〈世界像〉は〈世界像〉故にそれを抱える医師たちは、それを当然のものとして受け入れ、疑おうともしません。そして、これに対立するような言説を耳にすると、彼らは苦痛を感じてしまうのでしょう。自分の生きている〈世界像〉そのものに疑いを持ったり否定するというのは、苦痛以外の何者でもないのですから。そして、私は最後の部分、自分の〈世界像〉の否定は苦痛である、という部分にとても共感し、同情するのです。全く見解が異なる人に対しても共感を抱けるというのはなかなかの驚きであります。
CRPという〈世界像〉に支配された医師たちを救うのは、だから、批判でもデータの開陳でもありません。支援です。「しんどいとは思うけれど、僕も毎日患者を見に来ますから、勇気を持って抗生剤止めてみましょうか」という態度かと思います。そして、何ヶ月もあれこれの抗生剤付けにされていた患者のCRPが抗生剤を止めたが「故に」陰性化したとき、それを喜びとする、それをきっかけとするのが大事かな、と思います。新しい〈世界像〉がそこから見えてくるかもしれません。
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