バタバタしていて失念していましたが、新著を紹介します。内田樹先生との対談です。「はじめに」をご紹介。
はじめに
神戸大学の岩田健太郎です。
本書は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)をテーマに、3回にわたって内田樹先生とお話した、その対談をまとめたものです。
一般的に、ぼくは対談が大好きで、対談の企画をいただくとたいていお受けしています。自分からも「こんな対談の企画はどうだろう」と提案することもしばしばあります。これまでにもたくさんの方と貴重なお話をする体験に恵まれてきました。内田先生とも10年以上前でしょうか、ある看護雑誌の企画で対談させていただいたのがご縁でしばしばご一緒するようになりました。うちもすぐ近くですし。
なぜ、対談が好きかと言うと、「他者の言葉」に興味があるからです。
「他者」というのは、「自分とは同じようなことを言わない、考えない」人のことです。内田先生のお言葉は(あるいはその著書でも)「そうか、そういう考え方もあったのか」という驚きをしばしばもたらします。なんというか、思考の行き着く距離が長い感じがありまして、「そんな遠くまで届いてしまうのか」と驚かされるのです。あるいは、その距離感すらうまくつかめないまま、「いったい、どのへんの話をされているのだろうか」と首を傾げてしまうこともあります。これは読書中によく体験することでもあります。ぼくは自分の専門外の本を読むのが大好きなのですが(その本は、「他者」だから)例えば内田先生が傾倒されているレヴィナスの本などを読むとしばしば「迷子」になります。
「一切の現在、一切の再現可能なものに先立つような過去との関係は、他人たちの過ちないし不幸に対する私の責任という異常で、かつ日常的な出来事のうちに内包されている」(合田正人訳「存在の彼方へ」講談社学術文庫)
こんな文章を最初に読んだときは、それはもう迷走、迷子状態に陥ったものです。しかし、迷子になるのはある種の快感を伴うものでして、それは自分が知悉しているいつもの世界の殻を破る、一種の冒険のようなものなのです。ぼくはセルフ・エスティームが非常に低い人間ですので、自分の小さな世界の枠を常に刷新していきたいと、ついつい考えてしまうのです。
さて、セルフ・エスティームの低さゆえに(さっきの話とは一見、矛盾するようですが)ぼくは人と会うのがあまり好きではありません。会議とかはとても苦手ですし、宴会も好きではない。接待を受けることもとても苦手です。現在でこそ、依頼の講演はほとんど「ZOOM」になっていますが、去年までは講演依頼はほとんど「日帰り可能なスケジュールで」とお願いしていました。どうしても日帰りが不可能な場合は現地に宿泊するのですが、それでもいわゆる講演後の「情報交換会」(という名の飲み会)は基本的にご遠慮していました。そういうところでにぎやかに場を盛り上げたり、気の利いたパーティージョークを披露したり、目上をヨイショしたり、目下にくどくどと説教をしたりするのがとても苦手なので、現在のように全ての宴会が中止になり、ステイホームが原則になったこの世界を半ば歓迎すらしています(もちろん、歓迎しているのはその部分だけですが)。人と会わないのは、実に楽。
さて、話は変わりますが、アメリカでは科学の粋を極めたレベルの高い話、をするときにしばしば「ロケット・サイエンス」という比喩を用いて説明します。「この理論を理解するには、とくにロケット・サイエンスが必要、というわけじゃないけどね、、、」という使い方をするのです。つまりは、ロケットの打ち上げに必要な自然科学的知見は、その他の自然科学の知見に比べると格段に高いレベルの知能、知性を必要とする、という意味です。昔は米ソで盛んにロケット開発競争が行われましたが、それは一種の軍事競争であったと同時に「どちらが自然科学界のヘゲモニーを握るのか」の覇権争いでもあったように思います。
しかし、その科学の粋を極めたロケット・サイエンスを駆使しても、やはりロケット事業はときに失敗します。しばしば打ち上げは不慮のアクシデントから延期や中止になりますし、墜落したり、パイロットの死を招くことすらあるのです。
さて、そのような問題が生じたとき、その問題はどのように克服されるのでしょうか。
それはやはり、ロケット・サイエンスによって解決、克服されるのです。ロケット・サイエンスの知見を用いて失敗の原因究明、分析がなされ、ロケット・サイエンスの知見を用いて改善策、解決策が提起され、そしてロケット・サイエンスの専門家が問題点を踏まえた、改善策を加味した、新たなプランを策定するのです。
間違っても、経済学者や政治学者や生物学者や、あるいは医者とかが「俺が正しいロケットの打ち上げ方を思いついたぜ」と代替案を提示したりはしないのです。
どのような専門分野にも問題は生じ、失敗は起こります。しかし、その専門領域そのものの内部にある問題は、専門領域が問題を看破し、解決していくほかはないのです。そこは外的にはどうこうしようがありません。
ロケットの打ち上げが失敗したとき、「俺が正しいロケットの打ち上げを教えてあげよう」という輩がでてこないのは、ロケット・サイエンスのサイエンスたる純粋さ故なのかもしれません。翻って考えてみるに、感染症界のいかに雑然としていることか。たくさんの経済学者、政治学者、生物学者、その他、あれやこれやの専門家や非専門家たちが「俺の考えたコロナ対策」を提示してきます。まあ、これ自体は全世界的な出来事でして、アメリカでもイギリスでもドイツでも、「こうすればコロナ対策はできる」と手をあげてくるアマチュアは山のようにいるのです。
問題は、そのようなアマチュアなコロナ対策が提案され、専門家の見解が非難されたときに、政府がそれにノッてしまうことです。普通の政府であれば「それは専門マターなので、専門家におまかせしている」と一蹴してくれるのですが。
日本の感染症史においてはこれは決して珍しいことではありません。例えば近いところで言えばHPVワクチン、いわゆる子宮頸がんワクチン定期接種の積極的勧奨が途絶えた事例がありました。ワクチンの有効性と安全性は十分に吟味され、専門的にはHPVワクチン問題は「決着して」いるのですが、政治的にその専門知が共有されないのです。これは日本独特の病理でした。サイエンスがサイエンスとして正しく評価されない。政治的に歪められてしまう。なんど、同じようなヘマを繰り返してきたことか。もっとも、最近ではこれは日本だけの問題ではなくなってきており、例えばアメリカ合衆国とかも同じような反知性主義に突入しようとしています。
ぼくは感染症のプロになる訓練をアメリカで受けました。よって、ぼくをよく知らない人たちは「イワタはアメリカかぶれだ。日本を全否定し、国益を損なうサヨクである」と非難します。ダイヤモンド・プリンセス号の実態を動画で告発したときも、「イワタが日本の恥を海外に伝えた」と非難されました。非難されるべきは、背広の官僚がアウトブレイク真っ只中のクルーズ船に総出で突入してしまう、その素人芸っぷりにあるのですが。
それはともかく、今から20年近く前にぼくが初めて一般向けの本を書いたときにやったのは、911以降の炭疽菌バイオテロ事件で米国疾病対策予防センターCDCがどのくらいヘマをやらかしたのか看破し、アメリカの医療制度がいかに理不尽で非人情であるかを指摘したことであるのは、できれば思い出してほしい、覚えていただいてほしいことではあります(それぞれ「バイオテロと医師たち」「悪魔の味方 米国医療の現場から」という本になっています)。
2001年9月11日以降、旅客機の同時多発テロ事件でアメリカは文字通り大混乱に陥り、その後何者かによって郵便物に意図的に炭疽菌をしこんで郵送するという「炭疽菌のバイオテロ」事件が起きました。恐怖したのは郵便局員です。自分たちが手に取り、運んでいる郵便物に致死的な感染症を起こす細菌が入っているかもしれないのだから。しかし、恐れる郵便局員に「炭疽菌は封筒から外に出て飛び散ったりしない。安心しろ」と言ってしまったのがCDCでした。彼らは過去の知見から炭疽菌にはそのような属性がないことを指摘したのですが、テロリストが特殊な操作を加え、炭疽菌を飛散しやすいものに加工していたことには思い至らなかったのです。そのため複数の郵便局員が炭疽に罹患し、そのうち数人は死亡に至りました。そのほとんどは黒人でした。郵便配達は当時、黒人など有色人種の方が担うことが多かったのです。このこともあり、郵便局員たちは(当然)激怒したのです。
アメリカのCDCは無謬の存在などではありません。歴史を通じて間違え続けてきたのです。CDCの起源は1940年代のマラリア対策組織に遡ります。その後、生物兵器関係の情報部員という性格で伝染病センターが誕生し、何十年という歴史の中で数々の成果をあげ、また何度も失敗を重ねて今のCDCに至りました。
そのたびにCDCは学習し、反省し、分析し、改善し、そうやって感染対策のノウハウの質を高めていったのです。そして現在もCDCは学び続けています。「自分たちの専門性や科学の原則を全く理解しようとしない大統領のもとで、自分たちはいかにして自己の専門知が母国にもたらす成果を最大化できるのか」が現在のCDCがかかえる最大のチャレンジと言えるでしょう。
自分たちは絶対に間違えない、という無謬主義はむしろ科学の原則からもっとも遠いイデオロギーです。科学者が何かと取り組むとき、まず考えるべきは「自分たちが間違っている可能性」だからです。この可能性をどこまで網羅的に、徹底的に吟味できるかが、科学者の腕の見せ所だと申し上げても過言ではありません。これは日本政府や厚生労働省ともっとも折り合いのつかないイデオロギー上の齟齬だとぼくは思います。科学者が「自分が間違っている可能性」を徹底的に追求する一方で、政府や厚労省が良いそうなことはいつも「自分たちは適切にやっている」「問題はない」「失敗もない」という無謬主義だからです。
人が間違えないために一番手っ取り早い方法は、「間違いの定義を示さない」ことです。アウトカムが存在しなければ、結果を出したとか、出してないとかは指摘しようがないからです。「勝利」を目標とするスポーツチームがあれば、「敗北」は「失敗」と誰にも認識できます。しかし、目標がそもそも存在しなければ、失敗はありえないのです。完璧な無謬主義がここに完成します。
当初「適切にやっていた」と言っていたダイヤモンド・プリンセス号のオペレーションは、政治家によっていつの間にか「最善を尽くしていた」と言い換えられるようになりました。最善をつくすのはプロの前提であり、アタリマエのことであり、それは目標ですらありません。そんなフワフワした「最善を尽くす」のが目標であれば、何人感染者が発生してもそれは「間違い」でも「失敗」でもなくなります。
このような無謬主義のもとで新型コロナウイルス感染症対策を行っていれば、何が起きても、どういう結果になろうともそれは失敗ではなくなります。「最善を尽くしていた」といえばいいのですから。しかし、これは反科学的な態度です。そして、科学的な態度、科学的な専門性だけが、感染症学的な新型コロナウイルス感染症を最適化させる可能性を秘めているのです。
話を戻しましょう。そのような専門知のあり方について、みなさんと概念を共有し得た場合、「他者との対話」がどうあるべきなのか、と。
ロケットの打ち上げ方法に経済学者や政治学者が参入するのはどう考えても滑稽です。しかし、「ロケット打ち上げにかかるコストや経済効果」、「ロケット打ち上げが政治的にもたらす価値」を論ずるのは何の問題もありません。いや、それこそが、彼らが一所懸命論ずるべきトピックと言えましょう。哲学者であれば、「そもそもロケットとはなにか」「人が地球を離れる意味」といった命題ととっくみあうのかもしれません。
ぼくは「こうすればコロナ感染は減る」とか、「こういう人たちがコロナ重症化のハイリスクグループだ」と指摘することができます。また、そのときに門外漢の指南は必要とはしません。競馬のジョッキーが馬の乗り方を指南される必要がないくらいに。
しかし、「そもそも感染症とはなにか」とか「コロナ感染は防ぐ意味があるの?」といった、意味論や価値論についてはぼくの専門性はあまり役に立ちません。むしろ、いろいろな見識をお持ちの方々と対話を重ねて、ぼくたちが共有すべき新型コロナウイルス感染症問題を考え続けるべきだと思います。
考え続けるべきだとは思いますが、地に足のついていないフワフワした議論はあまり好ましくないとも思っています。よく言われる「コロナとの共生」などがそのひとつで、なんとなく自然とうまく折り合いをつけていきましょう、的なイメージは伝わるのですが、いったいその共生とはなんのことなのか、頭の中だけで考えた観念のようにぼくには思えます。なにしろ、ぼくら人間の殆どは「蚊との共生」とか「ゴキブリとの共生」すら、満足にできないのですから(これが完全にできている女性感染症医をひとり知っています。ぼくが「虫愛づる姫君」と密かに呼んでいる巨人です)。
内田樹先生はいろんな「顔」をお持ちです。そのなかで、思想家ともよく呼称されますが、決して空想家ではないとぼくは考えています。これまでお話を伺っていて、災害を論ずるときも、戦争を論ずるときも、政治や外交を論ずるときも、武道的というのか、あるいは身体的というのか、ぼくにはよい表現が思いつきませんが、いつもそこには一種のリアリティを感じます。ただ、前述のように思考の距離が長すぎて、スケールも大きいのでちょっと油断すると空想と勘違いしやすいだけで。ですから、お話を伺っていても、フワフワした観念論に陥ることが決してありません。重心の低い、安定した対話になっていると思います。ぼくがときどきフワフワしているかもしれませんが。
この「はじめに」を書いているのは2020年8月3日のことです。3回行われた対談のゲラを直していましたが、当時の自分の見解そのものには、基本的に筆を入れることはしませんでした。それぞれのフェーズで、ぼくの中でも少しずつ言っていること、考えていることがずれているのですが、その「ずれ」を読者の皆様にも認識していただき、イワタがどうずれていったのかも追体験、確認していただきたいな、と思ったのです。
内田先生は同時期のツイッターでイワタの「未来予測がほとんど当たっていた」とおっしゃいました。たしかに読み直してみると、それなりに見通しは立ててはいるのですが、見誤っていたところもあります。正直、第二波については日本はもう少しまともな対応をすると思っていました。いろいろしくじるだろうとは思っていましたが、まさか、第一波よりも対応が劣化するとは夢にも思っていなかったのです。病床数やPCR検査数、防護服などが潤沢になったのでその見誤り方が目立ってはいませんが、「事態が悪化している中で、さらに悪化がひどくなるような選択肢を取る」とは思っていませんでした。ぼくの日本政府吟味はけっこう厳しめだと言われることがありますが、むしろ甘々だったのだと、反省せざるをえません。
長々と余計なことばかり書き連ねました。内田先生のコメントを心待ちにされていた皆様、申し訳ございません。お待たせしました。それでは本編です。
梅雨明けの神戸にて 岩田健太郎
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