「外来診療の型」を読む
まずは感謝から始めよう。ある、浮腫を訴える患者の診断にずっと苦慮していたのだが、本書のおかげで診断がついた。「あの疾患」が浮腫を伴うことを知らなかったぼくの不明のせいなのだが、心から感謝している。
さて、将棋の世界でもサッカーの世界でも強烈な若者が出現して我々がこうだと思いこんでいた世界観を拡張、もしくは破壊し続けている。本書を読んで、医学医療の世界もそのような拡張・破壊と無縁でないことを思い知らされた。
診療には原理・原則というものがある。本書的に言うならば「型」である。むろん、どの領域にも規格外の「型破り」な存在・才能は存在するが、型破りとは型を習得したから「破れる」のであり、型を会得せずに無茶苦茶やっているのはただの「かたなし」だ。
診断における「型」とは、同じ主訴でやってきた患者に同じようにアプローチできる形式のことである。例えば、「痛み」に対するアプローチはそれが頭痛であれ、胸痛であれ、腰痛であれ、共通した「型」があり、この型に従って「なんでこの患者さんは痛がってるのかな」と一所懸命その原因を考え続け、痛みの原因にたどり着くのが我々医療者の目指すところとなる。「かたなし」の医療は、そういうプロセスを一切無視してMRIをオーダーしてみたり、痛み止めを出してしまうような医療である。
ぼくの理解する限り、まだまだ日本の医学部教育では診断の「型」を教えていない。診断学講義はようやく「心電図とは」「MRIとは」という診断技術解説から症候別に変じつつあるが、そこで教えられるのは「私はこうしている」という「かたなし」な経験論が多い。少数の講師は「型」をそこで教えることもあるが、例えば神戸大学医学部の診断学講義で「発熱」患者のアプローチを教える時間は50分しか与えられていない。この講義の後で、ぼくは学生に「型」を伝授できた実感を得たことがまだない。「型」は異なる現象に対し同じアプローチを反復して体得する反復練習なのだけど、50分で反芻できるケースはせいぜい、2例といったところだからだ。準備運動をして、整理体操をして、終わりなのだ。
本書はその「型」の本である。同じ主訴でケースを連打し、同じ「型」で異なる疾患に何度もアプローチしていく。生坂正臣先生が序文で述べているように、マーシャルアーツの組み手の練習や、サッカーにおける「止める、蹴る」の反復練習に近い。
特に実務的に教育の難しい外来診療における「型」の本である。外来で「型」を教えるのは難しいが、最大の困難は日本の医者の多くが実は外来診療の型を教わっておらず「かたなし」で診療している現実にある。痛みに鎮痛薬、熱に抗菌薬というかたなしの医療だ。教わらなかったから、教えられない。悪循環だ。ちなみに、新型コロナウイルス感染症COVID-19診療においてもそれは例外ではないのだが、「かたなし」に原理原則を無視するからあれやこれやの要らぬ混乱が生じるのである。いや、産みの苦しみ、「要る」混乱だと、肯定的に受け止めるべきか(受け止めたい)。
本書が、日本の外来診療に「型」を定着させる一つの楔となることを心の底から祈る。外来診療の拡張・破壊(良い意味で)である。
ぼくが若い頃は「日本人はサッカーに向いていない国民だ」とまことしやかに言われ、多くはそれを信じ込んでいた。ごく最近でも「日本人はラ・リーガでは通用しない」と言われ続けた。が、一人の若者が徹底した基本(止める、蹴る)をマスターし、さらにその「型」を破り、もはやスペイン人も「日本人にはラ・リーガは無理」とは考えなくなっている。
未来は困難だ。だが、打破できない困難はない。たぶん。
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