村上智彦先生の遺作、「最強の地域医療」を読んだ。その感想は別のところで書くが、本書で村上先生は「以前は患者が死ぬことを敗北ととらえていたこともあったが、死の受容こそが大切だ」という意味のことをおっしゃっている(手元にないので記憶のままに書いている)。
確かに、以前は救命、延命のみが医学・医療の目標であった。しかし、人は必ずいつかは死ぬ。死を全否定しても、結果を先延ばししているだけだ、という批判はあるかもしれない。特に耐え難い苦痛が延命とトレードオフになっている場合はなおさらだ。かつてないほどの長寿を獲得した日本ではポスト長寿の時代を迎えている。価値は長寿だけではない。では、長寿の先にあるもの、目指すもの、いったいそれはなんだ?というわけだ。
さて、80年代から90年代にかけて、医学における診断ツールが飛躍的に進化する。それはCTやMRIに代表される画像検査であり、PCRに代表される遺伝子検査であり、そしてインフルエンザ迅速診断キットに代表されるようなハンディな検査である。プレCTとポストCT時代では医者の診断能力は天と地ほどの差があるだろう。
しかし、90年代後半あたりから、EBMの到来となり、検査の感度と特異度の議論が起き、事前確率、尤度比、事後確率という概念が紹介され、ベイズの定理が導き出す「検査の限界」も判明してきた。検査単体では診断はできず、やはり医者の診断能力がそこになければいけない、というわけだ。これまで治療一辺倒だった臨床研究に「診断に関する研究」が加わり、診断学への情熱が一部の医者に(あくまで一部、に過ぎないが)高まり、それは1つの流行にすらなった。
そうして生まれたのはドクターGである。「ドクターG」は、すでにジェネラリストを紹介する番組ではない。診断プロセスを紹介する番組である。
ところが、最近耳にするのは「アンチドクターG」的な意見だ。ドクターGみたいな天才的な診断能力など必要ない。大事なのはコモンな病気をきちんと診る能力だ、みたいな意見だ。
まあ、そこにはテレビに出て有名になる医者たちに対するヤッカミもあるだろう。彼らの多くは(特に最近は)若くてはつらつと活躍するドクターで、女性もしばしば登場する。日本は若者や女性には冷たい国なので、彼らの活躍はすぐにバッシングの材料となる。
が、そういうヤッカミを差し引いても、この命題は重要だとぼくは思う。天才的な診断能力、まれな病気を見つけ出す特異な才能よりも、ジェネラルな、コモンな病気を見る能力が大事。
そうではない、とぼくは思う。そもそもこの命題そのものが間違っているのだ。すなわち、AではなくBという場合、AとBは対立する異なる概念でなければならないのだが、実は違う。
なぜなら、コモンな病気を診ることができる、ということはコモンでない病気をコモンでないと認識できる能力のことだからである。風邪に風邪薬を出すのが「コモンな病気を診る」の意味ではない(風邪に抗菌薬を出すのはもっと違う)。一見風邪のように見えて、実は違う、を峻別できる能力のことだからだ。「いつもと違う」という違和感を鋭敏に察知できる能力のことだからだ。
風邪に全例抗菌薬を出すことの問題は多い。その問題の1つに、「抗菌薬を必要とする細菌感染が混じってるかも」と全例例外なく抗菌薬を処方することで、風邪と風邪でないものの峻別能力、すなわち診断力、すなわち「コモンな病気を診る能力」が確実に落ちてしまうことにある。
とくに急速に進行する致死的な疾患を「コモンな病気」からより抜き出すのはプライマリ・ケア医の大事な責務である。初動をしくじると、患者の死に直結するからだ。
だから、ぼくはプライマリ・ケア医志望、とくに外来や在宅だけでホスピタリストはしない、というドクターには積極的な救急外来やICUでの研修をススメている。そこには一歩間違えば命を失うような切迫した状況が普遍的である。そして、自然に体温が高まり、緊張感が高まり、迅速なる対応を促すような「空気」が作られる。
この空気を体感していないと、いくら教科書的な知識を詰め込んでいても、いざというときの一歩が遅くなる。そういう事例は何度も目にしてきた。「そこは急いで対応しないと」のときの緩慢な態度。
外科ローテーションが非外科医にとって大事なのは、手術でのスキルを習得することではない。そんなものは、ローテが終われば、すぐに失われてしまう。大事なのは、外科医のメンタリティーと外科的エマージェンシーの際の現場の空気を察知することだ。ここは夜中でも外科の先生を呼ばねば、というタイミングを体感的に習得することだ。スーパーローテートは素晴らしい研修システムなのである。教わる側がそういう目標をちゃんと設定していれば。教える側が「うちの科に来ない人に真面目に教える気になんてなれないよ」などという無体なことを言わなければ。
AがAであるということは、BやCやDではないということだ。ライプニッツの言葉は非常に臨床的である。それは診断のときにも有用だし、治療法を選択するときにも有用だ。コモンな病気である、ということは、アンコモンな病気ではない、といえることだ。
もちろん、急速進行性の致死的な疾患でなければ、即座の察知は必須ではない。経過を観察しているうちに「おや」という違和感が醸造できればそれでよいことも多い。そのような時間軸の長短はあっても、「コモンである」と「アンコモンでない」のコインの両面を感知するのは大切だ。
ここまで考えると、アンチドクターGの気持ちもよく分かる。ともすると、ドクターG的カンファレンスは「いきなりシマウマ」「いきなりレア物」の世界になりがちだからだ。症例カンファのときだけ嬉しそうにはしゃぎ、一般外来では退屈そうな研修医は本質を見誤っている。珍しい病気から順番にあげていく癖は改めねばならない。「おれってこんな病気も知ってんだぜ」的なアプローチも失敗のもとである。どんな医者でも「知らない病気」はあるからで、「自分の知っていない病態の存在」を察知できて初めて診断能力は自らの「枠」を超える。枠がいくら大きくても、枠を超えねばただの「井の中の蛙」だ。
逆もまた真なりで、ぼくがスペシャリストにもジェネラルな能力(ジェネシャリ〉を主張しているのはそのためだ。
スペシャリストは、案外診断能力が低い。それは自分の科の疾患しか思いつかない、というあり方で表象されることもあるし、貧血や電解質異常といった自分の科と直接リンクしていない部分をサラリと見逃してしまうというやり方で現れることもある。パニック値を感得していないのもよくある失敗だ。カリウムが高い、低いのにビビらない。血小板がダダ下がりしているのにぼおっとしている。血液培養陽性なのにレスポンスが遅い。こういう「スペシャリスト」は多い。研修医は自分がなりたくない専門領域こそ真面目に研修すべきだ。そして、彼らの顔に緊張感が走る瞬間を見極め、ぐっと体温が上がるタイミングを追体験せねばならない。
診断能力は大事である。ジェネラリストだろうが、スペシャリストだろうが関係ない。診断ができて、初めてまっとうな治療は可能になる。だから、診断を疎かにしてはならない。
そして、「患者の死は敗北ではない」は、正しい診断とアセスメントの上に初めて成り立つ命題だ。間違った診断のもとでの患者の死は、やはり医者・医療の敗北である。少なくとも、間違えるべくして間違えたという、構造的な誤謬はいけない。
日本ではmorbidity and mortality conferenceがなかなか開かれない。また、開かれても深いところでの分析(root cause analysis)がなく、「でもみんな、一所懸命頑張ったんだよ」という空気でもってチャラにしてしまう。診断能力の鍛錬とは、誤診の研究でもある。なぜ誤診したのか、どうすれば二度と同じエラーを繰り返さずにすむのか、その研究が日本の診療現場では往々にして甘い。「患者の死は敗北ではない」みたいなきれいなスローガンに逃げてはだめだ。少なくとも、逃げてはいけないシチュエーションで逃げてはダメだ。
森毅氏は「ヤブの臨床医ほど診断を急ぎたがる。それはなにより、診断を決めてマニュアルに従うことで、自分が安心したいからや」と言ったという。彼の真意は別のところにあるのだろうが、ぼくはヤブ医と呼ばれようが、診断を急ぎたい。診断がついていない患者ほど怖いものはないからだ。「自分が安心したい」からと言われると一言もないが、怖いものは怖いのだ。それよりも、診断がついていない患者に恐怖を感じない医者のほうがもっと怖いし、「診断分かってないけどステロイド(や抗菌薬)いてまえ」の医者はもっと怖い。ぼくはそう思う。
ドクターGの時代は終わったか。それは分からない。テレビ番組の隆盛、衰退の基準は医学・医療の外にあるから。しかし、診断するということの重要性、診断したいという強い決意の重要性は少しも小さくはならない。
ただし。医者=人間は百戦百勝で「正しい診断」ができるとは限らない。いや、一定の確率で間違えるのが医者である。
しかし、「正しい診断」が常態でなくても、「正しい判断」を安定的に行うことは可能だとぼくは考えている。両者の違いを説明する余裕は本稿にはないが、その話はどこか別のところでする。
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