D「要するに、だ。心筋梗塞、、、冠動脈が詰まるこの病気は臨床的に「こういう条件を満たせば」という形では捉えにくい。もちろん、心カテがあれば診断がつくことが多いが、大切なのは心カテ「まで」のプロセスだ」
S「はい」
D「つまり、心筋梗塞という現象(シニフィエ)と心筋梗塞という言葉(シニフィアン)の間を埋める臨床的な作業は、常に欠落や余剰を伴っており、「心筋梗塞そのもの」を捉えづらいってことだ。そして、心筋梗塞という(カント的に言うならば)「物自体」は我々医療者にはつかみ取りにくい。まあ、心カテでかなり接近はできるけどな。これが「敗血症」ともなれば、とてもじゃないけど「物自体」はつかめない」
S「、、、おっしゃってることが、なんだかよく分かりません」
D「簡単に言うとだな。心電図でも心筋梗塞は十全に表現できない。心エコーも、トロポニンも、臨床症状も、身体診察もそうだ。それぞれに限界のある感度、特異度があり、見逃しや勘違いのもととなる」
S「ああ、それならなんとなく分かります」
D「そこで大切なのは「〇〇がある」というポジティブな記載だけでなく、「○○でない」というネガティブな記載だ」
S「といいますと?」
D「ライプニッツのモナドロジーだ」
S「読んだことありません」
D「少しはまともな本も読んだらどうだ。医学書とエロ本ばかりでは成長せんぞ」
S「な、なんでぼくが当直室にエロ本持ち込んでるの知ってるんですか?」
D「いや、知らんかった。思いつきで言ってみただけだ」
S「誘導尋問だ~~~」
D「単に自爆しとるだけじゃろが。モナドロジーでは、AがAである条件として、Aの属性を並べるだけでは不十分で、Bではない、Cではない、Dでもない条件も必要と述べている。心筋梗塞である、とは肺塞栓ではなく、食道スパスムでもなく、逆流性食道炎でもなく、帯状疱疹でもない、、、という「引き算の」規定も必要なんだ」
S「なるほど~」
D「他の疾患の可能性との相対関係で初めて心筋梗塞の存在は浮かび上がってくる。切り絵の「周りの紙」を黒字の紙の上に載せると絵が見えるのといっしょだ」
S「例えが、わかりにくいです」
D「たまには花月や寄席に行って遊ばんかい」
S「ああ、遊べということですか?今回の結論は」
D「一回、道頓堀に静められて、そのまま低酸素チャレンジテストでもやってこい。少しはましになるだろう」
第80回「モナドロジーの教え AがAであるということ」その2 終わり
続く。
この物語はフィクションであり、DとSも架空の指導医です。
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