学会の抄録審査。日本では100%採択な学会も多いみたいだが、それは発表者にあまりに失礼なので、丁寧に審査することにしている。
ルールがいくつかあるが、その一つは「当院におけるなんちゃらかんちゃら」みたいな抄録は基本的に落とすことにしている。所属施設の情報をアレヤコレヤ集めて、まとめて、場合によっては統計解析したりしているのだが、「結局何が言いたいの?」が分からないからだ。
臨床研究の多くは帰納法的な研究である。現象を観察し、そこから一般化できる法則を導き出そうとする。無論、演繹法的な仮説生成も大切な研究だが、それとて帰納法による検証は不可欠である。
換言するならば、「個別の事象から、一般事象を抽出する」のが帰納法的科学の態度と言ってもよいだろう。
「当院におけるなんちゃらかんちゃら」には一般化がなされていない(ことがほとんどである)。そもそもリサーチクエスチョンすらないことがほとんどだ。ただ、カルテをひっくり返して情報を集めて、こねて、丸くしただけである。「当院ではこうでした」だけが結論(そして翌年には別の施設から「うちではこうでした」という発表がなされる)。この夏休みの絵日記的な発表は、情報を蓄積して、排出しているだけであり、そこには科学がない。こういう発表を学術集会で行うのは、もう許容してはならない、と僕は思う。このままだと日本の学術集会はタダの「同窓会」になってしまうぞ。
実は医学部においては(看護などその他の医療系もそうかもしれないが)「科学的な思考法」、critical thinkingを学んでいないことがほとんどだ。うっそだー、俺はちゃんと学んだよ、という反論が聞こえてきそうだが、医学部や研修病院や大学院で学ぶのは基本的に「ノウハウ」である。「こういうときは、ああやっとけ」「こういうときは、そうするものだ」というノウハウが大量に蓄積されていくのである。医学部入学者は基本的に記銘力がよく、大量の情報をストックして引き出すのが得意だ。しかし、論理的な思考やラディカルなまでのクリティカル・シンキングは学部でもそれ以前の高校教育までも教わらず、身についていないことが多い。「学位をとることで科学的思考が身についた」という人をしばしば見るが、あれは「ノウハウ」が身についただけなのである(少数派のクリティカルシンカーはいるが、それはたいてい、大学院が与えた能力ではない)。
これが典型的な医学部脳だ。
好中球減少時に発熱すると、まずは緑膿菌をカバーしろと教わる。緑膿菌が敗血症を起こすとあっという間に患者を死に至らしめるからで、「発症60分以内にエンピリカルにカバーせよ」と言われる。ぼくもフェロー時代、「この化学療法中の患者さん、好中球無くて、昨日から熱出てて経過観察しても解熱しないんですけど、抗菌薬どうしましょ」と相談されて卒倒しそうになったことがある。
しかし、これを「好中球減少」ー>「緑膿菌カバー」というように「ノウハウ」で「記憶しては」いけない。緑膿菌をカバーするのはあくまで緑膿菌感染を見逃したら、失うものが大きすぎるからである。培養その他の検査で診断がつき、治療がうまく行き、「緑膿菌が関与していない」合理性が高まっていれば緑膿菌カバーは止めてもよい。また、カルバペネムを使ってもずっと発熱が続いており、かつその他のバイタルが安定しており、各種培養が緑膿菌を捕まえていない時は「緑膿菌が関与していない」可能性が極めて高い。FNで治療しそこねた緑膿菌感染は先にも述べたように「あっというまに患者をもっていく」からである。このような理論的合理性を鑑み、ガイドラインでも積極的なde-escalationを条件付きで強く推奨している。 Whatever the initial approach was (escalation or de-escalation) the patient should be treated according to the organism identified (assuming it is a plausible pathogen) using narrower-spectrum agents, guided by in vitro susceptibility tests, including minimum inhibitory concentrations (MIC) when available, and based on knowledge on drugs with specific activities AI. http://www.haematologica.org/content/98/12/1826.full
なぜ、好中球減少時の発熱に緑膿菌カバーが必要なのか。それが必要でないとすればどのような条件下で、その根拠はなにか。こういう考え方がcritical thinkingである。しかし、そのような学びは医学領域において稀有なのである。診療の決断は多くの場合、「ノウハウ」と「空気」と「大きな声」が決めるのである。
しかし、21世紀の超情報時代、そしてAIが医療に参入してこようという時代、大量の情報をアタマに詰め込んで「ノウハウ」を蓄積するやり方はもはや通用しない。徹底的にロジカルで、ラディカルで、クリティカルな思考方法が必須である。医学部でも大学院でも、そういう教え方を研究、臨床で行っていかねばならないのだ。
そうすれば、もはや「当院におけるナンチャラカンチャラ」は学術界で許容されなくなるに違いない。
高い学会費を集めるため、資格維持の必要条件にして参加を強要しなければ絵日記的な発表は自然に無くなるのでは。
投稿情報: Silk371 | 2017/01/27 17:00