D「知らないことは学べばよい。いま、医学知識はどんどん膨張して巨大化してるからな。しかも、俺たち指導医は自分の専門領域しか知らないから、ついつい自分目線で「自分が常識」と思っていることを「他人にとっても常識であるべきだ」と考えがちだ。でも、案外そんな根拠はどこにもない。研修医はいろんな科をまわるからな」
S「自分目線で研修医の「常識」を吟味したらいけないってことですよね」
D「そう、大切なのは研修医に「これは知っとくべき「常識」だ、少なくとも俺たちの領域ではそうだ、と示すことだ。知らないことを責めることではない」
S「な~るほど。言われてみればそのとおりですね」
D「知らないことは恥ではない。責めるべきは知らないことに無自覚な態度にある。だから、研修医に知識がなくても俺は全然怒らないけど、自分が担当した患者に出されてる薬や、出してる検査について勉強してないときは怒る。患者の抱えてる病気についてちゃんと勉強してない場合も怒る。自分の患者の飲んでる薬、出してる検査、かかえている病気については「当然勉強したい」と思うべきだ。その「知りたい」という態度が示されていないのが、問題だ」
S「そうですね」
D「つまり、単なる知識ゲーム的に「知ってるか」「知ってないか」は叱責の根拠としてはどうでもよい。でも、診療現場で患者について「知りたいと思っているか」「思っていないか」は重要な案件だ。その「知りたい」という欲望がない、示されていない場合は、その研修医はボコボコに叱責されてもしかたがない」
S「なにもボコボコにしなくたって」
D「例えば、電解質異常や血液ガスの解釈とかは、「知りたい」と思って教科書を開いて勉強しても、よく理解できないことはある。俺も、何度教科書を読んでもうまく理解できなかった時期もある。白状すると、今でもよくわからんこともある。それは叱責の対象にはならない。知りたいけど、分からなかったんだから」
S「あくまで「姿勢」が大事なんですね。なんか、精神主義だな」
D「そうだよ、俺は時代遅れな精神主義者だよ。アウトカムベースなんてクソ食らえだ。一所懸命やったってできない研修医はいるんだよ。スポーツでも、なんの努力もなく難しいことをなんなくできるやつっているじゃないか。何度練習してもできない不器用なやつもいる。できるやつが、できないやつに向かって「なんでこんなことができないんだ?」となじるんだよ。もちろん、できないやつに「なんでできないのか」は分かるわけがない。できるやつにだって分からないさ。そんなことを詰ってもなにも起きないんだよ」
S「分かります」
D「ただ、「できるようになりたい」という欲望はもつべきだ。そしてベストを尽くす。ベストを尽くしてもできないことはある。それは仕方がない。俺たちは研修医が本当にベストを尽くしているのか、そこを見てやるんだ。まあ、ベスト尽くせてないことがほとんどだけどな」
S「俺たちはまだ本気出してないだけ、って輩ですね」
D「そうそう」
S「先生、学生のときは「なんでこんなこともできないんだ?」ってなじられたほうでしょ」
D「ぎくう。人の心の傷口に塩を塗り込むようなことをををを」
S「ぼく、言われればたいてい、一回でできる器用なタイプなんですよ(鼻高々)」
D「ゆとりの国の王子様がああ」
第10回「知識のなさを怒ってはいけない」その2 終わり
続く。
この物語はフィクションであり、DとSも架空の指導医です。
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