書評書きました。「内科」に出していますが、ブログでも載せます。
「○○さんは抗菌薬が奏功して熱も下がり、CRPも低下しています。腰痛はまだ残っていますが、他に問題はありません」
「で、その腰痛はどうなったの?」
「??」
「☓☓さんは頭痛と発熱で受診されました。血液検査では、、、、。これから培養とって、ペコポコマイシン使おうと思います」
「で、この患者さん、なんで頭痛いんだろ」
「???」
この手の問答を何年も繰り返し行なってきた。かくも医療現場が痛みに無配慮、無神経なのだ。近年でこそ「緩和ケアチーム」の充実で疼痛対応は充実してきたが、「緩和」という文字の印象が早期の介入をためらわせる。そして、血液検査や画像検査で異常が見つからない疼痛を低く見る。これは、医療者のみならず患者にも少なからず見られる傾向だ。痛みに苦しむ患者は、検査の異常がありません、というととても嫌そうな顔をするのである。
本書は「痛み」をターゲットにしているが、「そもそも痛みとは何か」という根源的な問いから始めているところが、極めて特徴的だ。痛みは測定できず、その実在さえしばしば証明できない(よって懐疑の対象となる)。
懐疑は、即座の存在否定とは異なる。思考に思考を重ねて、その存在がどうしても否定せざるを得ない場合にのみ否定するような、デカルト的アプローチが必要だ。しかし、多くの医師は即答型の思考に慣れているため(日常診療の殆どが「即答」からできているからだ)、このような射程の長い徹底的懐疑には慣れていない。よってシンプルに「ない」と断定する、より楽な道を選択する。
量的に実証できない対象には質的なアプローチ、例えば質的研究、が可能だが医学界(とくに医師のサークル。ナースは必ずしもそうではない)では質的研究はまだまだ人口に膾炙していない。私も先日投稿した質的研究で査読者に「Nが不十分で統計的解析がない」という批判を受けて苦笑した。
このような世界観の克服に有用とされるのが西條剛央氏が提唱する「構造構成主義」である。痛みのように度量しがたい対象については、多元的なアプローチが有用である。多元的なアプローチには自分のアプローチ、自分の世界観を一回離れ、そうでないアプローチの存在を容認しながら「痛み」を解釈、判断する必要がある。痛みの診療において構造構成主義的アプローチは親和性の高いアプローチだ。
思考の多重性を容認し、二元論を廃し、信念対立を克服せんとする構造構成主義は現代日本医療における非常に有効な思考法だと思う。しかし、二元論の克服は困難で、この援用には慎重を要する。例えば、本書では構造構成主義的痛み論と従来の痛みに関する個別理論が対比されている(p66)が、これこそが二元論的思考に陥ってしまっている。幻肢のように、従来の科学的痛み解釈には限界があるかもしれない。しかし、その分かっているところと分かっていないところの了解線を引く唯一の方法は、実はコンベンショナルな科学的方法である。この辺りのジレンマを乗り越えれば痛みの医療はもっと豊かで、患者に有益なものになるんじゃないか。私はそう考えている。
池田清彦先生の「構造主義科学論の冒険」には、次のように述べられている「コトバとは変なる現象から不変なるなにかを引き出すことができると錯覚するための道具のひとつなのです」。この本は繰り返し読んだが、この文章がさっぱり理解できなかった。本書を読んで、その引用箇所に至ったとき、私はようやく腑に落ちた気がしたのである。本書を読む価値がいかに高いか。私はそれを説明しようとしているが、伝わるだろうか。
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