就職活動がどんどん前倒しになり、多くの大学生は大学入学時点から就職活動を開始しなければならないという。サークルに入るときも「就職に有利なサークルはなにか」と問われるくらいだと聞くから、相当なものだ。かつて受験戦争時代は「大学に入学する」ことが目的であり、大学で何をするのかは一切問われない時代であった。現在は大学は「就職するための手段」に堕しており、よって大学で何をするのかは一切問われない(就職に有利になること以外は)。昔が良かった、とは思わない。今も昔も大学にいることは目的ではなかったのだ。多くの大学生にとって。
文科省からして大学を就職後の準備機関として扱うよう教唆しており、就職や実務に役に立たない勉強は不要であるとまで考えられるようになっている。前に書いたサインコサイン話もその延長線上にある。
昔は高校の勉強が「大学に入るための辛抱」として行われ、大学に入れば就職してバラ色の人生レールにのっかる、というシナリオだった。今は受験で辛抱しても、やはり大学で就職活動に辛抱しなければならない。就職活動の「受験化」である。かりに就職できたとしても、そこには終身雇用もなければ、そもそもその企業の存続すら約束されていない。よってどこまでいっても「ここに乗れば大丈夫」というレールはない。それでも大学生たちは将来のための投資として資格をとったりするのに汲々としている。人生が、「永遠に未来のための投資」になってしまっているのだ。
人が「未来のために」活動している時、その活動は全力のものとはなりえない。長い長いむこうにあるゴールのことを考えながら、全速力の短距離走などできるわけはない。だから、マラソン的な活動になり、果てはジョギング的な活動となる。そんなに遠い先のゴールのためにパワー全開でいつづけることはできないのだ。よって、だらだらと時間を浪費しながら、パワーセーブを続けたままで生きていく習慣ができる。
日本の労働者はドイツやオランダのそれに比べて時間効率が極めて悪い。同じ仕事を夜遅くまで残業しないと完遂しない。メリハリの付いた全力疾走的な仕事ができないからだ。本当は朝の数時間に短距離ダッシュな仕事をして、その日の大事な仕事は終わらせてしまう。残りの業務はゆっくり流すように行い、夕方にはへとへとになって帰途につく(そして家庭モードに入る)のがもっとも効率のよい時間の過ごし方だが、多くは短距離ダッシュをしないのでじっとだらりと夜遅くまで仕事となる。よって家庭の時間は削られ、週末も疲労のために休養しかできない(仕事してなければ、の話だが)。いわゆる「ワークライフバランス」など、永遠に得られぬ夢にすぎない。
だから、若いうちから全力ダッシュを繰り返す習慣をつける必要がある。50m走、10m走、いや、5m走的なアクティビティを繰り返し、へとへとになるような体験を習慣化すべきだ。「今、ここ」だけのことを考えるべきだ。将来のことなど夢想する時間など、無駄な時間だ、とすら割り切るべきだ。
その全力ダッシュの先に未来がある。未来は結果なのであり、目的ではない。全力で過ごした現在の積み重ねの先に未来はあり、のんべんだらりと未来ばかりを見て過ごした現在の先には未来はない。皮肉な話だが、本当の話だ。
とても幸運な事に、医学生には就職活動地獄はない。ほぼ100%職を得られる稀有な学部である。そのことは有難いのだが、就職活動にエネルギーを要しないのだから、学生時代は学生時代にすべきこと、そのときしかできないことに全力でダッシュしてほしいと思っている。学問でもよい。遊びでもよい。「将来のためにジョギング」状態には、ならないほうがよい。その習慣は高くつく。
森鴎外に「カズイスチカ」という小説がある。主人公はスマートな医者だが、診療能力はもうひとつだ。彼の父も医者だが、知識が大量にある、というわけではないのに診療能力は高い。父は目の前の患者に全力を尽くす。その先によい診療があり、その積み重ねが、未来をつくる。主人公は頭が良すぎて、目の前に患者がいるのに他のことまで、先のことまで考えてしまう。あるいは研究のこと、未来のことまで。診療はついおざなりになり、よい診療ができない。その積み重ねの先にも未来がない。このことは、「サルバルサン戦記」にも書いた。研究活動も「今、ここ」の積み重ねなのだ。
5年生や6年生のとき、BSL時にどういう勉強したらよいかと聞かれることがある。一所懸命ベッドサイドで患者から勉強すべきだ、と答えている。就職活動に要するエネルギーは他学部よりもずっと小さくてすむのだから、そのアドバンテージを活かさない手はない。「学生時代の勉強なんて診療現場では役に立たない」とかいう先輩もいるだろう。ぼくも言われた。信じては駄目だ。その先輩がそういう学生時代しか送らなかったというだけのカミングアウトなのだから。学生時代にも、ベッドサイドで学べることは山ほどある。学生時代にしか学べないことも多い。医者になったら失ってしまう感性が残っているうちにしか見えないものもたくさんある。
初期研修医で「将来感染症をやりたいんだけど、今なにを勉強したらよいでしょう」と聞かれることも多い。「今回っている科の診療に全力で取り組むべきだ。感染症の勉強なんて入門したら、嫌というほどできる」といつも答えている。大事なのは「今、ここ」だ。
実は僕もカズイスチカの主人公みたいに、「ほかのこと」を考えてしまう研修医だった。某科をまわっているときも身が入らず、よく図書館で論文を読んだりしていた。先輩医師にひどく叱られたのを覚えている。論文読む暇があれば、病棟に行って患者を見ろといわれた。そのあと、心を入れ替えて「自分だけの病棟回診」とかやって、患者にはひどく「へんなひと」と思われただろう。そのやり方はスマートではなかったが、とにかく「今、ここ」を模索する上での必要な失敗だった。失敗することそのものは、全く問題ではない。
初期研修の時に、「自分が将来属するであろう科」を長くまわっている研修医がいてもったいないと思う。指導医の中にはそもそもスーパーローテートの意義を理解せず、ストレートにその科に入れば良い(おれがそうしたように)と信じている人も多い。短見である。多様な診療科に首を突っ込んで、それぞれの場所で「今、ここ」と生きていれば、将来に見えてくる世界は違ったものになる。それを「将来を考えずに」やる、という無戦略性が肝心である。狙ってやるとうまくいかない。感染症屋になりたければ、泌尿器科や精神科や産婦人科や小児科のローテを一所懸命やるべきだ。今やらなければ、もうやるチャンスはないのだから。そしてその学びはきっと感染症屋の自分に反響される。狙ってやるとだめなんだけど。
昔は臨床医の世界を数年中断したらもう役に立たない、と信じられてきた時代があった。あれはウソだ。実際には大学院に入る医者もいれば、海外留学する医者もあれば、病気する医者もいる。大先輩の中には「テーベー」になってインタラプトする医者はわりといた。初期研修の2年くらいどうということもない回り道だ。それは実は一番の近道だ。同様に、産休や育休、その他のインタラプションも少しも怖くない。知識のアップデートはいくらでも即座にできる。診療を続けていても、何年もアップデートしていない医者だって多いではないか。
時間は心理である。心理的に一番「のれる」ことに使った時間が一番濃密な時間だ。そのことを新書に書いたのだが、そのときはあまり理解してもらえなかった。2015年になって、やっとそういうう時間論が理解されるようになってきている。世の中がどう変わっても、自分の生き方を手続きやシステムに同調させなくても良いのだ。そう気づいた人が少しずつだけど、増えているせいだと思う。
それこそが主体的に生きるということだ。主体は「今、ここ」にある自分だけで、未来のどこかにいるかもしれない自分ではない。「おれはこんなところにいるべき人間じゃない」というも間違いで、今ここにいる自分だけが自分のすべてなのだ。足元を見据え、自分のいる所で自分を生きるしかない。ただし、逆説的だけど目線は高く持つのだ。遠くを見ているその目は、しかし(存在しない)未来を見ているわけではない。
よく質問されるトピックなので、ここでまとめときました。いつも喋ってる話で恐縮ですが。to the happy few.
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