昨日は産婦人科の先生方に感染症の基本についてお話。医学知識が爆発的に増大している現在、全ての専門領域についてまっとうな知識を持つのは不可能であり、大事なのは知識そのものではなく「考えかた」と「情報収集、吟味の方法」ですよ、という「いつもの」お話。学会のランチョンセミナーで「なんとかマイシンを中心に」みたいなレクチャーで勉強してはダメですよ、なんとかマイシンを使えるためには、なんとかマイシンの知識だけではなく、他の抗菌薬との相対比較が出来なきゃダメですから。とかなんとかいう話をした。
ま、それはともかく、内科学会と感染症学会が続いたのでわりと忙しい日々であった。ここでは医局と学会の訳の分からないネタについて論ずる。
ぼくはもともと医局育ちではない。ので、医局の「常識」が理解できない。タコツボ内の常識は外から見ると非常識だからだ。
で、謎その1。学会になると医局員全員学会参加するところが多いけど、あれおかしいでしょ。医局員全員いなくなったり、あるいは留守番ひとりだけ残したりすると、その間の診療アクティビティはガタ落ちする。手術のある外科系はなおさらだ。
だいたい学会なんて数人だけ出しておけば情報収集には問題ないわけで、それをあとで医局員たちで共有すれば良いだけの話だ。
というか、21世紀の現代、学会で得る「新たな情報」などほとんどなく、自分で自宅や職場で得る勉強のほうがはるかに効率的だしコストもかからない。学会にいくことに本当に意味があるのか?このくらいラディカルに考えてみるべきだ(同窓会と観光以上の意味はあるのか?)発表者とか、学会経験のない若手だけ行かせ、主力は病院に残して、現行診療のアクティビティを維持するほうが絶対病院経営的にも得だ。現在、大学病院で経営がうまくいってうまくいって、なんてところは稀有だろうに。学会に行くことでダウンする病院経営上の金銭的マイナスを計算して学会発表するってのはどうだろ。
まあ、学会に医局員全員を出す、というやり方は上記のように学術的にも臨床的にも病院運営的にも不合理な「非常識」だけど、このへんまでは「見解の相違」ということで、ある程度容認しなくも、ない。まったく理解できないのは、次の「その2」だ。
患者さんの件で相談していて「今こういうことをやったらよいと思いますよ」とアドバイスすると、「今主治医は学会に行っていて、決断できません」と留守番医に言われることがとても多い。これは理解できないし納得もいかない。
そもそも意思決定が出来ないレベルの医者が留守番やっている、ちゃんと引き継ぎしていない、というのが悪い。チーム医療がなっていなく、昔ながらの主治医制である(しかも機能していない)。
というか、留守番医がへっぽこで自己決定できなくたって、せめて携帯に電話くらいしろよ、と思う。何世紀の人間だよ。海外の学会ですら今は容易に携帯やメールで連絡がつく時代だ。主治医だったら、患者の重大なイベント、大事な意思決定であれば(自分がしゃべっている7分間とかだけ外せば)きちんと対応してくれるはずだし、するべきだ。主治医が学会に行っているので患者のマネジメントが全然進まないなんて、非常識極まりない。
アメリカでは入院が1日伸びるだけで病院が大損害なので、なんとか患者を「追いだそう」とあの手この手で入院期間を短くしようと全力を尽くす。それがよいとは全然思わないけど、学会に主治医が行くために入院期間がズルズル伸びるというのはいくらなんでも甘え過ぎだ。そんなに甘ったれていられるほど、今の大学病院は経営が甘くないのだが、昔ながらの「赤字を出しても大丈夫」な殿様経営のメンタリティーを引きずっているとしか思えない。というか、とにかく患者マネジメントに支障をきたすくらいなら、学会なんか行くな、とぼくは言いたい。どっちが大事か、少し考えれば分かるはずだ。
学会発表の寿命は短い。アーカイブで残るのも抄録だけだし、そもそも査読が甘々なので発表の質が低い(地方会とかやるから、さらに薄まって低いのが日本の特徴だ)。患者や病気をゴチャゴチャ集めて「当院における何とか病の20例」みたいな「研究したふり」の発表が多く、その手の発表は学会が終わるとすぐに忘れられる。そんな賞味期限の短い活動をするくらいなら、5年も6年もかけて妥当性の高いデータ解析をして、ちゃんと論文をパブリッシュすればよいのである。たくさん発表をすれば業績だと(誤って)信じてくれるのは文科省くらいだ。pubmedに入れる論文であれば、その寿命は(おそらく)未来永劫である。労働の時間効率からいってもポスターを作る労力よりもよほどリターンが大きい。いつも言っているが、論文化しないのであればポスターは作るべきではない(無駄だから)。
このブログを読んだ大学病院の医師の多くは憤慨するだろう。フンガイする、ということは、まだまだ自分たちの「常識」が世界の非常識である、というシンプルな事実に気がついていないのである。別に憤慨してもよいから、その後に、「俺達のやり方って外から見ると変なのかな」と考えてみるべきだ。考える、というのは学問の世界に足を突っ込んだ大学教員の最低限の責務なのだから。
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