青木眞先生の「レジデントのための感染症診療マニュアル」が改定されました(2015年3月、第3版)。本書の存在は日本の臨床感染症学の方向性を大きく変えました。歴史に残る名著です。現在、臨床感染症に関わる関係者で、本書に救われた体験のない者は皆無でしょう。
しかし、です。本書の本質はあまり正しく理解されていません。ターゲットとするオーディエンスには届いていないからです。正しいオーディエンスに「マニュアル」を届けることが、本稿の主たる目標です。要するに、「マニュアル」を使いこなしている人はどうせ第3版も購入されるに決まっていますから、本稿は読まなくてもよいです。
では、「正しいオーディエンス」とはだれか。 それは、全ての研修医(レジデント)とレジデントを指導する、全ての指導医です。大きく出ましたね。でも、誇張ではありません。以下に、その根拠を述べます。
本書の初版は2000年に誕生しました。「発熱患者を抱えて途方に暮れているインターン、抗菌薬を次から次へと替えても熱が下がらず焦っているレジデント、肺炎の改善がみられず諦めかけている若い医師、無数の感染症治療薬に窒息しかかっている学生」(初版序より)のために作られたマニュアルだったのです。
当時の目的は、ほぼ達成されたと言ってよいと思います。現在、「途方に暮れている」研修医たちは、まず間違いなくこの「マニュアル」を読んでいます。そんなわけで「途方に暮れていた」2000年以前の状況はほとんど払拭されたはずです。もっとも「マニュアル」以降も、「マニュアルに書いてあることと指導医の言っていることの齟齬」という新たな問題に「途方に暮れている」研修医は今も大量に存在していますけれども。
でも、こうも思うのです。「困っている研修医」はまだマシなのだ。問題なのは「困っていない」研修医なのだ、と。 感染症診療で「うちはちゃんとやってますよ」「困ってませんよ」という病院はほぼ100%感染症診療の質が低い病院です。なぜ質が低いのかというと、問題があることすら認識ができていないからです。
おざなりな診察、見当違いな検査、的はずれな治療をしているのに気づかない。だから、「困らない」。患者の治療がうまくいかなくても、「いや、セプシスでもってかれたねえ。そういうこともあるよ」と問題意識を持たない。
海堂尊氏は日本を「死因不明社会」だと断じましたが、多くの医者は「なぜうまくいかなかったかを真摯に謙虚に検討しない」という点で、ぼくは海堂氏と同意見です。学会に行けば、「なんとかマイシンで救命できた一例」といった武勇伝、武勇伝。失敗から学べない体質がここに象徴されています。
まっとうな病院に行けば、たいてい「うちの感染症はまだまだです。いろいろご指導ください」と真摯に謙虚に言われます。逆説的に、そういう病院の感染症診療は、それほど悪くない。
研修医でも「困って」「悩んで」いる場合はまだ救いがあります。上の先生から言われたことを鵜呑みにして、そこに悩みすら生じていない研修医こそが問題なのです。
研修医の目標は、「優秀な研修医になること」ではありません。「上の先生の言うことを上手にこなせること」ではありません。将来、優秀な指導医になる事こそ研修医の目標なのです。そして、優秀な指導医とは「悩むべき時に悩むことができる」指導医とほぼ同義語です。悩まない研修医は(そして指導医は)、はっきり言って危うい。
なので、感染症診療で「困ったことのない」研修医はぜひ本書を手にとって読んでください。(医学書院さんと青木先生には悪いけど)最初は立ち読みだって構わない。見た目の分厚さにだまされてはいけません。まずは、第1章の「基本原則」と第5章の「発熱患者へのアプローチ」だけでよいから、通読してほしいのです。それぞれ数十ページしかありません。本書には驚くほどテクニカルな言葉(業界用語)がありませんから、読み通すのはさして苦痛ではないはずです。
そこには、あなたが今まで聞いたこともない言葉(業界用語のことじゃありません)がたくさんあるはずです。指導医が指摘したこともないような言葉が並んでいて当惑させられるはずです。例えば、「漫然と病棟で(培養検査)結果伝票が返ってくるのを待っていてはだめである。研修医の時は足繁く細菌室に通うことが大事である。細菌室の技師さんも臨床サイドの情報を喜んでくださるはずである」(p20)。「よくみられる誤りは、広域スペクトラムの抗菌薬で開始、2~3日後順調に回復し始めた時点で、よりスペクトラムの狭い抗菌薬でも治療可能な起因菌と判明しても、不測の事態を恐れて広域スペクトラムの抗菌薬を使い続ける、というものである」(p29)。こんなことを言ってくれる指導医、あなたの周りにいますか(いたら幸いです)?
そこで、ぜひ考えてほしいのです。なぜ、「マニュアル」と「指導医の言葉」に齟齬が生じているのか、と。 ぼくが知る限り、日本の研修医はたいてい、総じて頭が良いです。単にその良い頭を使っていないか、使う機会を奪われているだけで。あなたの優秀な頭を使って真剣に考えれば、答えは自然に出てくるはずです。
前の版のときも書きましたが、感染症を診ない医者はいません。診ないとしたらそれは臨床医ではない、と言っても過言ではないでしょう。したがって、どの診療科を専門にしたい研修医であっても、感染症の勉強は必要なのです。
日本でも感染症医は増えましたが、まだほとんどの医療機関には感染症のプロはいません。青木先生の「マニュアル」なみの指導をうける僥倖に恵まれた研修医は少数派に属します。なので、研修医はみんな、まずこの「マニュアル」を携行することによって、自分の施設の欠落した部分を充填する必要があるのです。
病棟で発熱患者を見たとき、尿培養から○○菌を検出したとき、○○という抗菌薬を使うよう指導医から支持されたとき、研修医は「発熱患者に対する診療の進め方」「尿路感染症」あるいは感染症治療薬の各項を参照するとよいでしょう。ブレット方式でまとめられた本書を使えば当該箇所を開けば診療中に時間をかけずに欲しい情報を得ることができます。その内容はレジデントが知っておいてよい基本的な内容に満ちています。たくさんの学びを本書から得られるはずです。
本書は1,500ページ近くある本で、大著であります。値段も1万円以上します。しかし、2年間の初期研修に使いこなすのであれば、年間5千円ちょっとの投資でよいのだから安いものです。ワシントンマニュアルの翻訳版など9千円以上するのですから。後期研修まで5年ほど活用すれば年間2千円程度の出資にすぎません。
すでに述べたようにページ数はたいした問題ではありません。読まないところがあってもよいし、繰り返し読みなおす箇所があってもよいでしょう。1回読破したら2度と開かない安っぽいテキストを買い重ねるよりもずっと賢い買い物なんです。
さて、あなたは病院に感染症で相談できる先生がいますか?もしいないとしたら、ここに1万円ちょっとで手に入る「最良の指導医」(に最も肉薄する存在)がいるのです。研修時代に感染症で困りそうなことはほとんどすべてここに網羅されています。逆に言えば、研修医が感染症で困りそうなことを全部集めると、だいたいこのくらいの分量になるのです。だから、決して「ぶ厚い」と思ってはいけない。
あなたの指導医は「マニュアル」とは異なる指示を出すかもしれません。そういうときは質問してください。どうして「マニュアル」と先生の言うことは噛み合っていないのか、と「ご指導ください」と丁寧に、謙虚に言うのが大事です。議論をふっかけるのではなく、本当に知りたい、と思うのが大事です。その指導医が「ほんまやな、どうしてなんやろ」と思ってくれたら、大成功です。
幸い、2000年の往時とは異なり、現在は制度による縛りはかなり消失しています。必要な抗菌薬やワクチンはだいたい揃い、不適切な添付文書は改められています。血液培養を2セットとってもちゃんと保険請求できますし、最大量のペニシリンGを使って重症感染症を治療することもできます。あとは、指導医の納得と理解を得るだけでよいのです(たいていの場合は)。
さて、指導医のみなさま。もしあなたが感染症診療についてなんからの指導を研修医に提供しているのでしたら、そしてあなたが臨床医であれば、している可能性は極めて高いのですけれども、ぜひ本書を手にとって読んでください。読むところはさしあたって、研修医と同じく第1章、第5章、そして自分の専門領域でよくみる感染症から初めても構いません。
そして、「マニュアル」の言葉と自分の指導に齟齬はないか、ぜひチェックしてほしいのです。そして、もし齟齬があるとしたら、考えていただきたいのです。それはいったい、なぜなのか、と。
齟齬があること「そのもの」には問題はありません。感染症医が10人いても10通りの診療スタイルがあるのですから。「マニュアル」を聖典のように鵜呑みにして、他を全否定しろと主張しているのではありません。というか、そういう「全肯定、全否定」的な医者は、あまり感染症診療には(そして臨床には)向いていないと思います。
自分の意見とマニュアルの齟齬を「どうしてだろう」と頭をかきむしり、首をひねって考えぬくのが、謙虚で誠実な臨床医のあるべき姿だと思います。
青木先生の「マニュアル」はときに感染症界の「バイブル」と呼ばれます。困ったときの大きな救い、という意味ではそうかもしれません。でも、やはり「マニュアル」は「バイブル」ではないのです。医学書に盲信してよい「バイブル」などあってはならないのです。「マニュアル」は、我々が一所懸命感染症と取っ組み合うための、大切なツールなのです。
ぼく自身、本書を通読する際、自分のプラクティスと考えかたで理解できないところがありました。なので、Mandellという感染症の成書とか、Kucersという抗菌薬のテキストとか、その他いろいろ引っ張りだしながら、行きつ戻りつ「マニュアル」の文章を検討しました。性格、悪いですね。
例えば、「第2世代セファロスポリン系は髄液への移行が悪いので使用できない」(129p)と「マニュアル」にはありますが、セフロキシムなど髄液移行が悪くない第2世代セフェムはあります。「使えない」理由はむしろスペクトラムの問題だと岩田は考えますし、だから場合によってはde-escalationは可能だと考えています。まあ、実際に髄膜炎を第2世代で治療するケースはほとんどなく、de-escalationできたら一気にペニシリン、、ということが多いので、結論的にはほぼいっしょになってしまうのですけれど。
幸いにして、こういった「齟齬」は数えるほどしかなく、たいていの言葉はすんなり納得だったので苦痛はありませんでした。いずれにしても、ぼくは「マニュアル」はそのように葛藤しながら読まれるべきテキストだと思っています。
なので、感染症を指導する機会のある医者は、いちどは本書に目を通しておくべきだと思います。自分のプラクティスのキャリブレーション・ツールとして。そして、「齟齬」の存在に気づくべきだと思います。「なぜ」その齟齬が生じているのか考えてみるべきだと思います。もっというならば、自分たちのプラクティスがどのような根拠に基づいているのか、深く再検討してみるべきだとも思います。それは「昔からそうなっていた」「教授がそう言っていた」「医局のルールだった」「なんとかいうメーカーのごちそうしてもらったお弁当」「「なんとかマイシンを中心に」みたいな学会のランチョンセミナーの影響」ではなかったでしょうか?
ぼくは日本感染症界の歴史を振り返り、かなり突っ込んで検証したことがあります(「感染症対策の新展開」In 「新通史 日本の科学技術第4巻 原書房」2011年)。
そのとき役に立ったのは日本内科学会雑誌で定期的に行われてきた感染症界重鎮による「座談会」でした。座談会はアカデミックな情報には乏しいけれど、当時の空気、時代のエートスを知るにはとてもよい資料なんです。
さて、「マニュアル」以前の座談会では、「(日本は)抗生物質は世界一発達している国」(日本内科学会雑誌 82.1993)といった牽強付会な万々歳コメントに満ちていました。「問題ない」「うまくいっている」のオンパレードでした。MRSAが問題になって後にすら、強気のコメントはそのままでした。
こうした座談会で問題意識を明らかにした言葉を見いだせるのは、「マニュアル」の出版された2000年まで待たねばならないのです。「我が国は感染のリスクマネージメントという面では、欧米に比べるとかなり遅れているというのが現状です(賀来満夫)」(日本内科学会雑誌 89, 2000)。
今でも「重鎮」といわれる人々が「日本の感染症はうまくいっている」「少量のβラクタム剤1日2回投与で困ったことはない」といった強気のコメントをしています。しかし、「うまくいっている」「問題ない」と口に出した瞬間、それは「本当はうまくいっていない」「うまくいっていないことすら認識できていない」というカミングアウトをしているのです。
なぜなら、「マニュアル」などを熟読して、勉強と訓練を重ねて、ベストを尽くした医療を目指してなお、うまく治療できない感染症は多々存在するからです。うまくいかなかったケースが定期的に存在するのが、「普通の」感染症のプロの日常だからです。
どんなにテクノロジーが進歩しても、新しい抗菌薬が開発されても、例えば肺炎球菌による髄膜炎やMRSAによる心内膜炎、壊死性筋膜炎はいまだに「手強い」「御し難い」感染症です。その苦しみは、「マニュアル」のあちこちにも見出すことができます。この苦しみを知らず、「感染症なんて簡単だ」とうそぶいた瞬間、感染症のことは何も分かっていないと吐露しているのです。
2007年に本書の第2版が上梓されたとき、これを「日本版マンデル」と称する声を聞きました。「日本語で書かれた最高のテキスト」という意味においては、この呼称もあながち見当違いではないと思います。
しかし、本書はやはり「レジデントのためのマニュアル」なので、それ以上でもそれ以下でもないのだとぼくは思います。本書が「バイブル」でないように、本書は「和製マンデル」ではないのです。
マンデルが臨床感染症のプロを念頭に置いたコンプリヘンシブなリファレンスなのに対して、本書はあくまでも「レジデントのためのマニュアル」なんです。見た目の重厚さにごまかされてはいけません。こんなにぶ厚い本でも、コンテンツ的には昨今の研修医が頻用するUpToDateよりも圧倒的に分量は少ないはずです。エボラ治療の新薬とか、新しいカルバペネム耐性菌とか、感染症「オタク」が好みそうな「セクシーなトピック」はほとんど触れられていないのも象徴的です。本書においてマニアックな(専門医的な)内容がしばしば「成書に譲る」とあっさり捨象されているのも、本書がマンデル的なテキストを最初から目指していない証左なんです。
さて、本書はこれまで青木先生の単著でした。しかし、本版から多くの感染症医たちが制作に加わっています。
ところが、驚くべきことに本書を読んでいても、前2版との「論調の違い」が全く感じられません。青木先生が単独で著したと言われても全然不自然ではありません。「医療関連感染の予防」(第3章 藤本卓司先生担当)と「旅行・熱帯」(第21章 竹下望先生担当)という2つの新しい章が加わったのに、やはり不自然さはありません。
これは青木先生の思考プロセスとその精神をよくよく理解した共著者が、その文体を壊さないように充分に配慮したからだと思います。
たくさんの新しい文献、新しい情報、新しい図表が加わっています。ぼくがアメリカにいるとき使っていたカスポファンギンと日本に帰国してから使い出したミカファンギンの直接比較などは、本版のかなり目新しいところだと思います(p266など)。とくに治療薬をまとめた第2章の文献的な充実ぶりは際立っています。最近の生物学的製剤と感染症の関係図(p1214~15)なんかは、「こういうのが欲しかったんだよね~」的とても臨床的で有用なまとめです。「黄熱ワクチンの追加接種が不要」(p1417)みたいな情報も「へ~勉強になった~」的新しい情報です。
しかし他方、肝となるテイク・ホーム・メッセージは2000年の初版からほとんど変わっていません。これはおどろくべきこととも言えますし、「まあ、そうかな」と思えるところでもあります。
ぼくはこの第3版で、「お、これは」と思うところは第2版を開いて比較しながら読み進めました。「お、これは」のほとんどが第2版で全く同じ内容で書かれています。おまけに、たいていの場合、ぼく自身がアンダーラインを引いています。テイク・ホーム・メッセージには普遍性があるのです。レジデントがみる感染症の「原則」は15年たっても変わらない。
我々はどんどん変化する医学のカッティングエッジな領域ばかりに注目しがちです。だから、「(コンテンツが刷新されていない)印刷された教科書なんて読まなくてよい。PubMedで最新のエビデンスを集めていればいいんだ」なんて豪語する人すらでています。
しかし、その領域のカッティングエッジなところ、変化し続ける辺縁のところは、いずれ新しい情報に置き換えられてしまう、寿命の短いところでもあります。コアなど真ん中なところはそう簡単に変化しません。2000年に上梓された本書が、15年たってもコアなメッセージが変わっていないのは、そのためです。研修医にとって習得すべきは、どちらか。ぼくは、答えは明らかだと思っています。
それにしても、後進の教え子たちに自分のテキストを査読させ、校正させる青木先生なんとスケールの大きいことか。自分の文章を若手に直させる度量をもつベテラン医師が日本に何人いるでしょう。まあ、ゴーストライターとしてこき使うことはあるかもしれないけれど。それにしてもそれにしても、アンダーラインを引いた箇所をことごとく覚えていない岩田の頭の悪さっぷりのなんとひどいことか。全く恥じ入るばかりです。
日本には30万人近くの医者がいます。青木先生の「マニュアル」がこれまで何万部売れ、何人の医者に読まれたのか、ぼくは知りません。しかし、この稀代の大ベストセラーも、マジョリティの医者には読まれていないのが現実です。ぼくが大学の教員になって、あちこちの病院を訪問し、たくさんの医者のプラクティスを眼にしても、「この国の感染症診療はいまだ夜明け前」だと痛感します(そして、当事者はそのことに気づいていません)。
しかし、15年前を振り返ると、「マニュアル」以前の黒歴史を振り返れば、ぼくは楽観的にならざるを得ません。メッセージは確実に実を結びつつあります。それは本「マニュアル」に貢献した共同作成者たちの顔ぶれをみればあきらかです。青木先生も15年前のような孤独な存在ではありません。たくさんの後進たちに支持されています。青木先生(や岩田)に陰でぶつぶつ言う輩はいても、学会のような大きな舞台で面と向かって否定する、否定できる人はいなくなりました。時代の流れは、決してひっくり返ることはありません。
本書が「夜明け」を早めてくれるのを、心の底から希望しています。薄明かりは、もう見えているのです。
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