漫画家の浦沢直樹氏は自身の漫画を電子書籍化させない方針である。「はじめの一歩」で有名な森川ジョージ氏も同様の見解で、「一步」も60巻以降が出ていない。ファンとしては残念に思っている。
リンク先によると、浦沢氏は自分の漫画を「スマホで読んでほしくない」からだと言い、漫画は「見開きで読む形態」だから「それがキープできない媒体では、見てほしくない」のだそうだ。また、「無料で読める漫画」にも反対である。
「僕らが小学生の頃は単行本が220円から250円位。とてもじゃないけど、買えない代物だったんですよね。本屋も立ち読みさせたくないから、子供の手の届かない高い棚に並べていた。それを眺めながら「いいなあ、お金が貯まったら、あの単行本がほしいなあ」って憧れていたんです。そういう世代なので、「タダで見る」って、それ漫画の見方じゃいよな、って。漫画は憧れの対象で、背伸びして一所懸命、手に入れるものだったのに(中略)それがタダになると、憧れもへったくれもなくなっちゃう」
ぼくは浦沢氏の漫画に対する「憧れ」論に強く共感するが、それを根拠に電子書籍を出さないという意見を狭量だとも思う。
ぼくは浦沢氏より一回り年下の田舎者だが、自分が子供の頃も漫画本は高嶺の花だった。ジャンプ・コミックスが1冊360円(当時は消費税はない)。たしかひと月のお小遣いが500円だったと思うから、アイスだのなんなの買うと、漫画に出せる金はめったにない。ぼくはときどきサッカーマガジンとかダイジェストとか買ってたし(当時あった「イレブン」は高くて買えなかった)。雑誌は買えず、ジャンプやコロコロコミックは廃品回収で捨てられたものを公民館のゴミ捨て場で拾って読んでいた。ぼくの時代は島根も東京もわりと立ち読み可能で、ぼくは多くの時間をクーラーの効いたショッピングセンター内の本屋で立ち読みして過ごした。ギャグ漫画は笑いをこらえながら読む気持ち悪い子供だった。だから、漫画を買う「憧れ」はよく分かる。
しかし、だからなんだというのだ。自分がそうだったからといって他の人間に同じ価値観を共用するなんて、浦沢氏にしても森川氏にしても了見が狭すぎる。「自分は貸本屋時代に育ったから、漫画は売るべきではない」なんて言われたら困るでしょ。漫画家といえども大人の社会人なのだから、少しは「自分目線」以外の価値観も尊重すべきだ。いや、目線はファンの目線であるべきだ。漫画家はファンのためにあるのであり、ファンを無視した孤高の芸術家であってはならないと思う。
森川氏の「はじめの一歩」はすでに100巻を超える大ロングセラーだ。ぼくが外国で暮らしていた1998年から2004年の「一歩」は脂が乗った一番面白い頃だった(失礼ながら、今はさほど面白くない)。毎週、最新の「一歩」が見たいのだが、海外でマガジンは手に入りにくい。パリやNYなら紀伊國屋などの日本書店があるが、航空便で届いたマガジンは恐ろしく高価だった。爪に火を灯すような貧乏暮しの研修医だった僕にとって、その出費はとてもつらいもので、結局ソリューションは「立ち読み」だった。どんなに忙しくても毎週「一歩」だけは立ち読みしていたのである。たまに仲間の日本人がマガジンを買うと、みんなで回し読むのだった。
子供の時から漫画は回し読むものだった。ファミコンソフトを貸しあうように。漫画が「高値で憧れ」であることと、そこに対価を支払わねばならないデューティーの有無はまた別問題だ。そこが浦沢氏には分かっていない。
引っ越しを重ねて「一歩」は古本屋に売ったり、震災後に寄付したりして手元になくなった。100巻も超える漫画を日本の家屋にキープするのは大変だ。ebookで「はじめの一步」が提供されると聞いてぼくは喜んで電子書籍でこれを大人買いしたものだ。出張先でも海外でも全巻読めるし、手元にあるので実にありがたい。ところが、いつまでたっても(61巻以降の)新しい巻が更新されない。森川氏が電子書籍を拒んでいるからだ。また読み直したいのに。電子化された「マガジン」にも「一步」は入っていない。
Kindleになると、最初の数巻を0円で提供している。これが浦沢氏には我慢ならないらしい。でも、何十巻と続くベストセラーを「読んでみようかな」と思わせるためには、実際に読んでみるよりほかない。ぼくの子供の頃と違って本屋で立ち読みは不可能な時代である。せめて最初の3巻くらいは試し読みしなければロングセラーには手が出ない。最近、「ちはやふる」が(1〜3巻まで)無料提供されていたが、とてもおもしろかったのですぐ全巻手に入れた。無料提供がなければ決して手を出さなかったが、傑作だったので手を出してよかったと思っている。逆に無料でも最初の1巻で「もういいや」と思うことも多い。その判断ができることが素晴らしいのである。タダは、タダではないのである。
電子書籍も紙の本も好きである。電子のほうが便利なことも多い。特に便利なのは海外のペーパーバック。すぐに手に入るし、何冊でもスマホに入れとけるし、タップすれば辞書が使えるので読みやすいことこの上ない。ぼくみたいに英語力に乏しい人間には、ペーパーバックの膨大な文字数よりもスマホ内の乏しい文字数のほうがビビらなくて済む。海外の教科書については、パソコンに入れたkindleで読むことでどこに出張していても大冊を読めるようになった。これは実に素晴らしいことだと思う。漫画もありがたくて、出張先でipadで漫画が読めるのはほんとうに有難い。アフリカの奥地にいても日本の漫画が読めるのは電子書籍のおかげである。そういう読者が存在することも、浦沢氏や森川氏は少し考えてみてほしい。
映画監督の中には「映画は映画館で観るものだ」と思っている人は多いだろう。小説家の中には、「小説はハードカバーで読むべきだ」と思っている人もいるかもしれない。あるいは昔ながらのペーパーナイフで切り分けるのが本来の読書と思っているひとすらいるかもしれない。しかし、多くの人はDVDで映画を見て、ネット配信で映画を見る。文庫本で、スマホで小説を読む。しかし、そのような「選択肢の豊かさ」がユーザーを増やすのではないか。田舎だと映画館すらないところも多いし、マイナーな作品はやってこないのだ。「スクリーンでなければ映画を見るな」と監督が強要するようになったら映画は滅びていたことだろう。テレビやスマホで映画が見れるから、スクリーンの映画も生き延びているのである。
「漫画は紙で読むべきだ」という作家の信条を否定する気はない。ただ、それを多くの読者に強要してほしくはないのだ。漫画家が読者に「読み方」を指南するようになったら、漫画は死んでしまう。
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