神戸大に異動した2008年、ぼくはそこで行われていた指導医講習会があまりに「富士研」そのままで退屈で退屈で仕方がなかった。指導医講習会ではなくて「あくび指南」なのではないかと思ったくらいだ。
なので、すぐに制度設計した。「原則」的に行われていた泊まりがけ、2泊3日という方法では忙しい指導医たちは時間創出もままならないし、疲弊してしまう(たいてい疲れきります)。そこで六甲の山奥(別名サティアン)に軟禁されてやっていた講習会を神戸大病院での日帰り講習にし、2日の(宿泊なし)のプログラムに再編し、改革したタスクのメンバーも一掃し、「上司に命令されていやいや」参加する講習会を「金を払ってでも出たい」講習会に変じてきた(事実、神戸大の学生は金こそ払わないが、誰にも強要されないボランタリーな形でこの講習会に参加し、多くを学んでいる)。
今年もその講習会が行われたのだが、2つのアクシデントがあった。ひとつはもっとも期待されていたタスクのひとり内田樹先生のご参加が急遽叶わなくなってしまい、シンポジウムの調整を必要とされたこと、もうひとつは参加者の一人が緊急オペのために、7割くらい参加された時点でやむなく退出されてしまったことである。
我々はこのドクターを気の毒に思い、厚労省に次年度講習会の途中からの参加許可を申請した。指導医講習会の開催指針では、16時間の講習義務があるが、2年にまたがる講習受講を禁ずる文言はない。厚労省が定めた規則の範囲内・裁量内でこの医師の講習修了は可能なはずであった。
しかし、再三の懇請にもかかわらず、厚労省医政局医事課医師臨床研修推進室臨床研修係係長O氏はノーと言い続けた。彼の言葉は文字どおり木に鼻をくくったような「だめなものはだめ」のトートロジーであったが、「「連続して」16時間受講しないものは修了と認めない」というのがその結論であった。なぜ、「連続して」なのかの問いにはついに答えがなかった。
「指針でそうなっているからです」
「指針にはそんなこと書いてありませんよ」
「えっと、じゃ、厚生労働省の意向です」
「その意向は通知とかQ&Aという形でどこかで明示されているのですか」
「いいえ」
「では、それを厚労省の意向と呼ぶのはおかしいのではないのですか。あなたの個人的な見解なのではないですか」
「そうではない」
「では、誰と誰の見解なんです」
「それは言えません」
それは言えません、とO氏が言ったことで彼は「それを言った」のである。彼は「言えません」という言葉によって、そこに「連続性を強要しろ」と命じた「だれか」の存在を明らかにしたのだから。
かねてから2泊3日、16時間の指導医講習会は多忙な臨床医には長すぎてつらすぎると悪評だった(ぼくらもアンケートを繰り返しているが、いちばんの苦情 は「長い」であった)。そこで次年度から講習会の運用を改定すべく現在審議が続いている。しかし、この講習会の「連続性」をなんとしてでも維持しなければ ならないと主張する有識者がいるのである。だから、たとえ「指針」では明示的に禁止されていない非連続な講習の受講も、頑なに拒まれるのである。
というわけで、これは係長O氏の個人的な裁量でなんとかなる問題ではなく、臨床研修係の不文律として規定路線になっており、しかもその規定を作った張本人は誰にも明示されないといういかにも日本の行政にありがちなぐるぐる・ループを作っていたのだった。
せっかく患者のために講習会を中断してくださった医師の方に対して、当方はお役に立てなかった。その無力をお詫びしなければならない。
「連続」にこだわるその有識者がだれであるか、ぼくは知らない。O氏は開示してくれない。自信を持った(自称)プロの見解なのだから、なにも隠ぺいする必要はなかろうはずだが、まあ、しかしぼくもそれが「だれか」という点には興味が無い。ただし、その人物にはここで一言申し上げておきたい。
16時間の連続的な講習が、1年をまたがる分割された2講習になった場合、その講習コンテンツやアウトカムが損なわれてしまうという見解はどういう根拠によるものだろうか。そのような教育心理学的なデータが有るのだろうか。そのような医学教育研究的エビデンスがあるのだろうか。まさか指導医が1年間ですべてを忘れてしまうなどとは思っていないでしょうね。1年ですべてを忘れてしまうような賞味期限の短いコンテンツであれば、そんな指導医講習会、やるだけ無駄ではないか。
前年度と次年度では参加者が違うとO氏はいう。いいではないか。ワークショップなのだから、より多様な言葉、多様な意見が聞けて、ワークショップはより有意義で豊かなものになるであろう。前年度と次年度ではプログラムの内容だって変化するとO氏は言っていた。もちろん、漸進的な変化はあるが、180度真逆なものになるわけではない(ぼくはやったけど)。しかも、その変化は厚労省は書類によって審査しているわけだから詳細を日程に至るまで掌握しているのだ。前年度と次年度のプログラムのコヒーレンスや連造成に問題があれば、それを確認できるはずだ(ちゃんと全部書類確認してんですよね)。それに、通常時年度のプログラムは前年度のそれよりベターなものになっているはずだ。もしそうではなく前年度より次年度のプログラムが劣化しているのであれば、それはタスクやチーフタスクの選択が間違っているということであり、講習会を毎年審査する厚労省の見識が誤っているということになる。天下の厚労省がこのような素人じみた誤りを犯すはずもない。「その年」指導医講習会に参加した者よりも、2年にまたがって次年度も講習会に参加した者のほうが、より優れたプログラムを甘受できるに違いないのだ。
というわけで、16時間の講習会を2分割してはいけない論理的、教育学的根拠はゼロである。「指針」にもその文言はゼロであり、厚労省にこれを拒まなければならない理路はどこにもない。財務省のような外的圧力がかかる領域でもない。
では、なぜ「連続」に固執するのか。それは、指導医講習会の目的が指導医の養成にはないからである。
医療というのは不確定性に満ちた営為であり、突発的に予期せぬ出来事が起きる。いや、突発的に起きる出来事はすべて我々が予期した範囲内でなければならない。患者の急変、新規患者の出現、緊急オペ、新興再興感染症のアウトブレイクなどはすべてこれ我々の「想定内」の出来事であり、あれこれ急事が生じるたびにオタオタ、ウロウロしていては医者はやってられない。研修医たちをこのようなみっともない医者にすることは我々指導医的には絶対に許されない。
そして、急事が生じた時も我々は冷静に「当初予定していたのとは違う」プランBを現時点での最適解としてすぐに発動させる必要がある。緊急オペが必要な患者が指導医講習会中に発生した場合、多くのばあいそのプランBは「オペに行くこと」である。「これ、16時間最後までいないと指導医になれないんだよね。オペはちょっとかんべんしてもらって治療の効果は割引しよう」では瞬時に最適解を選び出すことが必須の医者としては素養不足である。当然指導医の資格も欠いており、研修医を教えるロールモデルとしても不的確だ。
「講習会時にオペに行く医者と、講習会にとどまり続ける医者と、あなたたちはどちらの医者が指導医講習会が養成すべき理想的な指導医だと思っているんですか」
とぼくはO氏に問うた。
「いや、おっしゃることは分かりますが」
分かりますが、分からないとO氏は言った。彼にとって大事なのはより優れた指導医を養成することではないのは、ここからも明らかである。
ぼくが担当係長なら絶対にこういう。
「いや、分かりました。立派な先生ですね。その先生をさらに16時間拘束するなんて、気の毒に過ぎます。幸い、「指針」には「連続した講習」は明文化された義務として書かれていません。私の裁量で、2年ごしの講習をお認めしましょう。立派な指導医を増やして、研修医の未来の為に頑張ってください」
さて、緊急オペに行き、来年度も16時間の拘束を強いられ、「同じ話」をまた何時間も聞かされる運命にある外科医はどう考えるであろうか。指導医講習会の制度設計をしている人たちはオレたち現場のことはなんにも考えていない。研修医教育にコミットしたっていいことなんて全然ない。こうくさるのが普通では無いだろうか。こうして、我々は医学教育と初期研修のシンパを一人失ってしまうのである。
最近、医学教育の流行りは「アウトカムベイスド」な教育である。16時間の連続性にこだわることがどのようなアウトカムをもたらすのかはぼくは知らないが(本当は知っているが)、ここで言いたいのは、アウトカムベイスドを謳う医学教育学学者(医学教育学者にあらず)は、大事なことを見落としているということだ。
彼らはアウトカムを精緻に明示すればアウトカムベイスドなのだと勘違いしている。
もちろん、アウトカムは大事に決まっている。しかし、それを詳細に具体的に長々と明示してシラバスを作り、「これがコンピテンシーだ」と明言すれば、「ああ、なるほど、私はな〜ンにも考えなくても、あなたたちの言うことを聞いていれば立派な医者になれるんですね」という集団の一丁上がりである。そこにはあるべき葛藤も失敗も紆余曲折もない。飛躍もない(シラバス通りにやってればいいので)。「他人の言うことを聞いていれば医者になれる」というパスウェイを明示された医学生、研修医が自分の力で「アウトカムとはなにか」と葛藤するチャンスは小さい。最大のアウトカムとは、「アウトカムを自分の力で自己設定できる能力を持つ医師であること」なのに。
こうして、仔細で精緻な制度と形式に満ちた指導医講習会は、「この人達の言うことを聞いていれば研修医教育できるんだな」と思考停止になり、医学教育界のトレンディーなジャーゴンを頭に詰め込んでな〜んにも考えなくなった指導医を量産していく。葛藤や矛盾を乗り越える胆力は失われ、理不尽とか正義とかについても「だまって言うことを聞いていろ。頭を使って考えるな」という厚労省と医学教育学学者の圧力に踏み潰される。ワークショップでは「答えはひとつではない」というが、もちろんひとつに決まっている。どこの講習会に行ってもまったくおなじスライドを使ったKJ法の説明がなされているはずだ。指導医ならみな実感しているであろうが、最近の学生や研修医はマジメで礼儀正しく、勉強熱心だが、「葛藤や矛盾を乗り越える胆力」は致命的に欠如している。今後はそれが助長されていくのはまちがいない。厚労省や教育学学者たちが「頭を使わない医者たち」の普及を望んでいるからだ。
こうして思考停止になった指導医講習会タスクたちによる、思考停止な指導医の養成が行われ、思考停止な研修医たちの教育が運用される(その手は医学生にも同じロジックで文科省から伸びていく)。いざというときに判断も決断もできない医者が「コンピテンシーのリスト」を埋めていけば医者になれるというシンプルパスウェイをもらった医学生が、スイスイと医者になっていく。
彼らがこういう見解に対する言い訳もすでに透けて見えている。「これまでも受講者は緊急オペなどで途中中断していました。彼らに対する平等性を担保するためにも、その人だけ特別扱いするわけにはいきません」。ぼくならこう答えよう。「なるほど、ところで皆さんは「自分が間違っていたことに気づいて即座に訂正、方針転換する医者」と「自分が間違っていると気づいているのに、そのまちがいに苦しんだ人たちとの平等性を根拠にそうと知りつつまちがいを続ける医者」とどちらをより涵養したいとお考えですか」と。みんなおんなじじゃなければいけないという幼児園児的発想をしていて、どの口で「プロフェッショナリズム」だの、「成人学習理論」だの偉そうな言葉を吐けるのか、と問いたい。
2009年のパンデミック・フルーのとき、多くの臨床医が「厚労省、診療指針を示せ」と要求した。彼らは現場を知らない役人に現場での箸の上げ下ろしを指南してくれと要求したのだ。官僚たちは「やれやれ、やはり日本の医者は俺達がいないとなにもできないんだなあ〜、困った奴らだ。また終電乗れないよう〜」とぼやきながら、涙を流して呵々大笑することであろう。こうして好コントロール装置はぐるぐる周り、どんどん現場の医療者の知性は劣化していくのである。もちろん、当人たち(や医学教育学学者たち)は全面否定するに決まっている。しかし、人種差別主義者が人種差別主義者であることを自己申告することはありえないのである。彼らの底意は外的に判じるより他、ないのだ。たとえ自分自身、それに自覚的でなかったとしても。
こういう劣化作業に、我々は手を貸してはならない。自分の感受性、主体性、知性は自分自身で守らねばならない。指導医講習会を頭の悪い指導医作成プログラムにしないように、参加者タスクたちは真剣にもう一度、大事なことを見直すべきなのだ。見直すと、そこには深淵が覗き返してくるはずだ。
こういう時に役所から外科関連学会が守らないと外科医不足に拍車かかりますよね。
若手医師は使命感と志向(趣味や適性)と生計の3ファクターで主に専攻科を決めると思いますが、明らかな不利が提示された職種をわざわざ選ぶのは変人かギャンブラーです。
投稿情報: Jiro Terada | 2014/12/04 17:57