医学教育はワインテイスティングに似ている。
両者には直観が大事だ、という点において。これは現在の医学教育界(の一部、だと願いたい)が主張しているのとは真逆である。すなわち、「アウトカム・ベイスド」であり「数的評価の重視」である。
ワインは大きく分けると2つしかない。美味いワインと、そうでないワインだ。あとは細かいサブ分類にすぎない。
問題は、だ。「美味いワイン」を「美味い」と言い当てるのには直観が必要だ、ということだ。
「直観」は「直感」ではない。直ちにその対象の本質を言い当てる、そういう能力のことである。小林秀雄のいう「直観」はこのことだと言ってよい。
ワイン・テイスティングにおいても直観が大事である。え?テイスティングでは「色」とか「糖度」とか「酸味」とか「蜂蜜の香り」とか、分析的に分解的にチェックするではないか、ですって?
もちろん、分析的・分解的なワイン・テイスティングは可能である。必要でもある。しかし、それは「後付」の説明にすぎない。直観で「美味いワイン」と見抜いたあと、「ではなぜ美味いのか」を長々と説明すると、分析的・分解的に描写出来るだけの話だ。それがソムリエ試験的な記述であれ、「おお、、これはマッターホルンに咲く白百合のようだ」みたいな「神の雫」的表現であれ。
音楽鑑賞でも、絵画の鑑賞でも、小説や詩や俳句の鑑賞でも、ダンス・フィギュアスケート、陶芸や書、漫画、武道ですら、多くのものは「直観」によって感得される。直観が前提で、評論家的な解説はその後からくるものだ。逆ではない。全体から部分に行くので、その逆ではないのだ。美女に一目惚れするのと同じである。美女のパーツは問題ではない。事後的に解説的に説明出来るだけで、本当は余計な付属物にすぎないのだ。
セパージュやヴィンテージや産地や作り手やパーカーポイントや「格付け」や値段はワイン・テイスティングの参考にはなる。勉強にもなる。しかし、なんといっても大事なのは自分の直観である。自分の直観だけである。パーカーポイントを参考にしてワインを買うのは別に悪くはない。しかし、パーカーポイントに自分の直観を従属させるのはよくない。パーカーポイントこそ自分の直観だと勘違いするのはさらによくない。セパージュやヴィンテージや産地や作り手やパーカーポイントや「格付け」や値段ばかり気にしていると、肝心の直観が衰えていく。「こっちのほうが値段が高いから美味いはずだ」「パーカーポイント99だから美味しいに違いない」という本末転倒が起きる。
医学教育も同じである。「よい教育」は存在する。確かに存在する。よい絵画やよい音楽やいい女のように。それは直観できるもので、するべきものだ。
よい直観には才能が必要だ。訓練も経験も必要だ。読書や音楽鑑賞といった「感性を磨く」営為も大切だろう。教え子に対する愛情ももちろん大切だ。
そうやって直観は磨かれていく。優れた教育があるように、優れた直観は存在する。しかし、それは言語や数値といった「記号」で表現できない。すれば「超人強度」のような陳腐な存在に堕してしまう。記号は関係や構造を示すのに優れた存在だが、カント的「物自体」を表現することはできないのだ。
アウトカムですら、直観の従属物、「直観の説明」に過ぎない。ぼくがロールモデルにしている優れた教育者の優れた教育を、何らかの「数的アウトカム」で表現することは可能である。それはしかし、なんとも陳腐な表現であり、「物自体」とはかけ離れた存在にすぎない。国家試験に何人受かったとか、教育パフォーマンスの数値には、ロールモデルの真の価値は決して見えない。
美味しい料理を来客数や収益といった「アウトカム」で表現するようなものだ。もちろん、美味しい料理は食べて楽しむ(直観する)に限るのである。
指導医講習会を批判している。コンベンショナルな(富士研的)講習会は一目見れば「いけていない」と直観できる。できなければいけない。それが直観できない人は、医学教育から足を洗うか、根っこから考えなおしたほうがよい。この世界に向いていないか、訓練や経験の仕方を根本的に間違えている可能性が高い。
ちなみに、臨床力にも「直観」は深く関与している。それは例えば、「検査前確率」である。検査前確率とは、その医師の病気の直観力の一表現形である(そのものではない)。医学教育をデジタルなアウトカム「だけ」で吟味するのは、検査前確率を無視して検査データだけで病気を扱うようなものだ。検査データが大事なのは言うまでもない。しかし、デジタルなデータだけを拠り所にしていると、その先にあるのはもちろん「誤診」だけなのである。
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