買ってたんだけどどこかに消えていた本。数日前にひょっこり出てきたので読みました。数あるウチダ本のなかでも(釈先生もおいでですが)、近年一番ぐっときた本でした。
他者の言葉を聞いていて素晴らしい瞬間は、自分だったら絶対に思いつかなかったような言葉とか考え方をバーンと出してもらえてびっくり仰天する瞬間だ。内田先生とか釈先生の言葉には、いつも「ばーん」の驚きがある。毎度の話も多いんだけど、「いや、それは思いつきもしなかった」という話が必ず混じっている。自分の知識体系の外側にある「知らない知の体系」の存在を予感させてくれる。
先日のブログではナース批判をしたけれど、ナースの言葉に「バーン」とひっくり返りそうな思いをすることはほとんどない。これはもちろん、ナースが勉強不足だとか知識が足りないという意味ではまったくない。ナースの多くはぼくの知らないことをたくさん知っている。でもそれは「マニュアルにはこう書いてある」とか「今年のICNの試験では何人通った」とか「看護協会の裏側でこんなもめ事があって」とか「最近の看護の世界ではこういうのが話題で」いった業界情報、インサイダー情報、最新のトレンドに過ぎない。「なるほど、そういう考え方もあったのか」と既成の価値観をひっくり返すような言葉を聞くことは、ほとんどない。ごく稀に、そう、例えば聖路加の坂本さんのように「それは思いもしなかった」という言葉を発するナースもいるけれども、これはごくごく少数派に属するものと思う。
ぼくはICNは看護部から独立して、感染管理部門所属として仕事をすべきだと長年主張している。ICNの仕事は「感染予防」であり、それは必ずしも看護マターではないからだ。しかし、ほとんどの病院ではICNは看護部付きで、何をやるにしても感染の素人である看護部長や副部長にお伺いを立てなければならず、ひどいときにはああしろ、こうしろと的の外れた意見に従わねばならない。
ナースにこの話しをすると、「そんなの当たり前だ」「そういうものだ」と必ずいわれる。しかし、世界のなかで感染管理のプロが看護部門に所属して、看護師たちから指示・指導を仰がねばならないシステムを採っている国がぼくが知るかぎり皆無であることについては、全く無頓着である。「自分たちの世界が世界の全て」になっている一例だ。彼女たちは(ナースの管理職が男性であることは、ドクターの管理職が女性であること以上に希有なことだ)、「自分の世界の常識」についてぼくよりもはるかに熟知しているが、その外には異なる世界があることについてはまったく無関心なのである。世界の非常識を自分の価値観に当てはめて「常識」「当たり前」と言っているに過ぎない。
もっとも、「自分の外の世界に無関心」というのはナースに限ったことではなく、医療職全てにつきまとう病魔のようなものだ。医者の世界ももちろん例外ではない。
従って、そこでは「自分たちが見当違いであるという可能性」は完全に捨象され、学会は同じ価値観の集団によるシュプレヒコールの舞台となる。内省はどこにもない。
医療の世界、とくに教育の世界では内省(reflection)という言葉は流行り言葉に過ぎず、実際には「自分たちが見当違いである」可能性は完全に捨象されている。医学教育関係の雑誌での対談を見ると、そこにあるのは徹底した自己正当化の連鎖である。ぼくの独断だけど、日本の医学教育界は「教育学」学者とか教育ウォッチャーは多いけれど、99%は内省的な教育学者ではない。単に学的知識や最近のトレンドに通じているだけで、AKB48の3サイズを全て暗記しているファンと何ら変わりはない。
日本からスティーブ・ジョブズのようなイノベーターを育てようという動きが見られたことがあるが、まったくもって笑止である。ジョブズは文科省や経産省が想定するような「グローバルな人材」ではなく、スーパーグローバルなんとかから絶対に生み出されないタイプの人物なのだから。文科省は学習指導要領に「主体的な」生徒を生むようなことを何度も書いているけど、教科書を検定し、教師に手取り足取りで主体性を奪いまくっておいて、その教師が主体性を涵養できるわけがない。
7つの大罪(105ページ)があることは、多くの人が知っている。傲慢、どん欲、嫉妬、憤怒、貪食、色欲、怠惰である。しかし、内田先生のようにこれらの「大罪」が実は全て人間の生活に必要不可欠なものであると看破する人は極めて少ない。ぼくも近著で嫉妬心は問題だ、というけれども嫉妬心をどう扱うかについてはきちんと書けていない。多くの医学教育ウォッチャーが「怒ってはいけない」というけれども、怒りをゼロにすればよいとも思っていないはずだ。しかし、多くの「教育学」学者はカテゴリカルにものを考え、2x2表を作り、グレーゾーンの存在は顧慮しない。だから、「怒ってはダメだ」「虐待する親の子どもは虐待者になりやすい」といった分かりやすい、白黒の話をしたがる。
そのグレーゾーンの境界線の設定は極めて知性の高い営為になる。簡単に答えが出せない、「歩哨」の微妙な仕事になる。そのグレーゾーンは未知の「霊性」とシンクロする。このような「バーン」と驚きを与え、かつ我々の腑に落ちる言葉が本書にはちりばめられている。韓国や日本の教育者や医者が(「教育学」学者ではなく)内田先生の言葉に共感するのは、そのためだ。
医学に限らず、日本の教育界は崖っぷちにある。多くの教育者は文科省にも学術業界にも見切りを付けて、「立ち去り」つつある。その絶望感の源泉を、本書を読んで改めて確認した次第である。
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