リベリアから帰国した人物が発熱したというので「エボラ疑い」という理由で入院。メディアがこれを報じた。
これは、感染症学的に、リスクコミュニケーション学的な失敗である。「疑い」の段階でメディアにリークすべきではなかったし、メディアもこれを報じるべきではなかった。
我々はHIV感染について検査するが、確定診断がつくまで決して患者に「あなたはHIV感染があるかもしれない」などとは言わない。確実な診断が出てから、お伝えする。HIV検査は二段構えになっているから、第一の検査の陽性、第二の検査の陽性を持って診断とする(例外はある)。しかし、第一の検査陽性は間違っていることもある。実際にHIV感染がなくても検査が陽性になることはあるのだ。
しかし多くの患者は「検査が間違えることもある」というコンセプトを知らない(実を言うと、医者でも知らない人は多い)。いくら形式的には「これは確定ではない」と説明しても、患者は大パニックである。取り乱してトラウマが何ヶ月、それ以上続くこともある。正しい情報を形式的に伝えていれば「メッセージが伝わる」というものではないのだ。
医者は人間の心理を熟知している(べきだ)。なので、形式的に情報公開してもメッセージは伝わるとは限らないとわかっている。だから、「そこに情報があるから伝える」ではだめだ。ちゃんと理解できるように伝わることが大事なのだ。「情報公開した」という形式よりも、「正しく理解できた」という実質が大事なのだ。もちろん、これは「患者に嘘をつかない」とかいう話とは全然別の次元の話である。
エボラ「疑い」を公開しても、感染管理上有益なことは一つもない。その時点では曝露のトレーシングはしないし、たとえエボラの感染があっても無症状の段階で感染は伝播しないからだ。潜伏期間と感染性を考えるならば、「確定診断で陽性」になってから公表、そこから感染管理を始めるのが感染症学的に正しい態度である。あるんだかないんだかわからない印象だけを伝えない、デマを惹起しないという意味で、リスク・コミュニケーション的にも正しい態度である。そもそも、当該人物の国籍や性別や年齢や職業など、感染対策とは何の関係もない。
今回の情報公開を誰のレベルで決定したかは知らない。しかし、感染症学的にもリスコミ的にも間違った行為だということは間違いない。間違いだと知らずにやったのなら、それはプロとしての知識や技量を持たない人物の行為であり、知識や技量を持ったプロに相談すべきであった。もし間違いだと知っていてやったのなら、そいつは患者やコミュニティーに利益がないにもかかわらず、あとでメディアに「情報隠蔽した」と非難されたくないからそうしたのに違いない。ようするに自分が可愛かったのである。前者であれば稚拙であり、後者であれば卑劣である。
太田国交相は「(感染の)疑いがある患者の年齢や性別、滞在国、航空機の便名と乗客数などを公表する方向で検討している」そうである。愚かなことである。別に大臣が愚かなのは今に始まった事ではないから、それは驚かない。愚かな大臣が間違えるのも仕方がない。しかし、間違いには気付けよ。そして、正しなさい。間違えるのは仕方がないが、間違えているのに訂正せず、正しもしないのは真の意味での馬鹿野郎である。さすがにいくら大臣とはいえ、そこまで愚かなのは困る。
メディアは知る権利があると、錦の御旗を掲げるに決まっている。もちろん、嘘である。彼らは風呂を覗いても「知る権利がある」というような卑劣な輩である。単に自分たちのデバガメ根性を発揮して、世の中を騒がせて、新聞や雑誌を売ったり視聴率を稼いで喜びたいだけである。形式的に「知る権利」「知る権利」と騒いで自身を正当化しているに過ぎない。患者や公衆の安全のことなど考えてもいないし、そんなことには興味もない。STAPで自殺者が出た時反省したメディアはゼロだったではないか。すくなくとも反省の余地がなかったか、検証するくらいはできたはずではなかったか。
アメリカもリスク・コミュニケーションで迷走している。2001年の911を体験したので、アメリカがパニックに弱く、メディアが狂瀾しやすいこともわかっている。ならば、日本はその反面教師から学び、「騒がずに問題に対峙する」という腰の座った姿勢を示すべきである。大義を重んじ、責任回避を二の次、三の次にすべきである。
医者たちは、自分の患者のプライバシーを守るために命がけで「知る権利」と連呼する卑劣な輩に対峙する覚悟を持つべきだ。自らも卑しくなってはならない。プロの矜持は、こういうときにこういう形で示すべきなのだ。
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