シリーズ 外科医のための感染症 コラム できているという自信、できていないという自覚
さあ、このシリーズも最終回です。おつき合いいただいた皆さん、ありがとうございます。
ぼくが他のドクターと感染症についてお話しているとき、ほとんど例外なく、その相手の力量を判定する方法があります。
それは、
「うちはちゃんとできてますよ」
とおっしゃるか、
「うちはまだまだできてないんですよ」
とおっしゃるかによる判定です。
「ちゃんとできてますよ」とドクターがおっしゃる場合、そこの感染症診療はまず間違いなく問題ありありです。間違ったアセスメントがなされ、間違った検査がオーダーされて、それを間違って解釈され、間違った治療薬が間違った投与量で間違った根拠で間違った投与期間用いられています。
そのような間違った知識の獲得は間違った勉強の方法がもたらしたもので、ネットの聞きかじりや昔からの医局の伝承、製薬メーカーからのバイアスに満ちた情報提供などに依存しています。海外の論文やガイドラインは「ここは日本だ」という理由一つで全否定し、代わりに和文で出された質の低い論文にすがりつきます。
そして、これが最大の問題点なのですが、彼らは自分たちの「正しさ」に固執し、間違っていることを認めることを頑に拒み、他者の言葉には耳を貸しません。自分たちの知識の体系の総体についてのみ頓着するので、その外にどのような大海があるかについては、全く存じませんし、また関心もありません。
一方、「うちはまだまだできていない」とドクターがおっしゃる場合、そのドクターの知性は「自分が知っていること」と「分からないこと」の境界線がどこにあるか、ちゃんと自覚しています。自分の知性の境界線の向こうには果てしない「まだ分かっていない世界」があるという自覚があります。だから「まだまだできていない」と感じられるのです。
そういうドクターの診療は、わりと正しいことが多く、診断、治療についても妥当性が高いことが多いです。英文の教科書や論文もわりと読みこなしていて、その情報のティーチングポイントも、その限界もわきまえています。「CDCはこう言ってる」という無批判な飛びつき方も、逆に「ここは日本だ、CDCなんか知るか」みたいな逆ギレもしません。和文情報であっても、自分たちの診療に役に立てばそれを活用しますが、質の低い論文や学会発表は採用しません。
できているという自信。それは過信です。できていないという自覚。それは「できるための条件」を模索するさらなるエネルギー源となります。
ぼくら感染症屋にもまだまだできていないことがたくさんあります。日本の臨床感染症界はまだまだ「夜明け前」。外科領域の各専門科に比べると、ものすごく遅れているのが現状です。専門医の数は足りず、その質は担保されてません。
それでも、外科の先生たちのお役に立ち、好きな手術に邁進していただけるよう、それが延いては患者さんケアの質の向上につながるよう、微力ながら精進していこうと思っています。外科は医療の花形、家で言えば玄関、客間にあたります。感染症領域は家で言えば便所です。我々は、とにかくよりよく、より使いやすく、居心地がよく、そしてときに玄関や客間にもの申し上げる便所でありたいと、切に願っているのです。
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