上野修著、「スピノザ「進学政治論」」が面白くて今夢中で読んでいる。正直、「エチカ」とかチンプンカンプンなところが多かったですが、この本を読んでスピノザについてだいぶすっきりしてきました。
デカルト以来、理性、合理、哲学、自由という概念が広がってきた。その分、守旧的なキリスト教徒の反発は強い。急進的なデカルト主義者と保守的なキリスト教徒は、聖書解釈をめぐってバトルを繰り広げる。前者は聖書の内容をメタファーと合理的に解釈し、後者は聖書の内容は全部書いたままの真実だと主張する。
スピノザは、どっちも「聖書が真」と決めつけている段階で間違い、と両者を断罪し、神の絶対性のもとで、ヘブライ語から翻訳されて書き改められ続けた聖書の絶対真理性を否定する。聖書やキリスト教、神を否定することなく、聖書を相対化し、各論的に吟味分析したそのアクロバティックな見方は今の目から見てもとても斬新だ。
さて、話は感染症である。
15年くらい前だったかな、やたら「CDCはこう言っている」という台詞が流行ったことがある。アメリカにはCDCという偉い役所があって、そこの推奨に従っていれば感染対策はオッケーらしいよ、という感じだったのだ。今から考えるととても素朴な発想だが、読みもしないで「ここは日本だ、アメリカじゃない」とCDCを全否定する無思慮な人たちが多かった時代には(当時としては)斬新なアンチテーゼでもあった。
当然ながら、CDCの推奨は聖典ではない。あくまでも道具に過ぎない。アメリカはなんでも標準化したがる悪癖を持っていて、ガイドラインもマニュアル化しがちだから、日本のような離れた島国の方がCDCを相対化できるチャンスは大きいんですけどね。まあ、さすがに最近は「CDCがこういっているから」と丸で飲み込む人は減りました。
しかし、今でも「CLSIにはこう書いてある」的な言説は多い。ガイドラインもCLSIのブレイクポイントも道具に過ぎない。使いこなすものであって、平伏するものではない。
CDCの推奨がマントラではないように、CLSIの基準も神の真理ではない。そこには人の意図が込められている。
近年のCLSIの「意図」は「どこでやっても同じ解釈」という標準化圧力である。繰り返すが、アメリカは好きなんです、標準化。
なので、例えば、ESBL産生菌であろうとなかろうと、ESBLチックなものはみんなカルバペネム使っとけ、となる。標準に準拠しておけば、エラーは少なくなる、(訴訟も免れられる)、というわけだ。
しかし、ESBLとESBL「みたいなもの」は違う。もっといえば、日本のESBLとアメリカのESBLも違う。従って、そのような微妙な違いを意識しながら、より妥当性の高い診療を行うのはより高級な営為である。それが、プロの仕事というものだ。
幼児には、「虹は7色」と教える。それは、正しい。そして幼児は7色のクレヨンで虹を描く。これも正しい。しかし、プロの絵描きは虹を7色には描かない。なぜなら、実際の虹は7色ではないからだ。
CLSI基準の「正しさ」もこのような虹の7色と同じである。だから、感染症のビギナーはCLSIに準拠しておけば問題ない。しかし、感染症のプロはどこでCLSIが使えて、どこで使わなくてよいか、どこで使うべきではないかを区別できなければならない。
たとえば、CLSIにおいて、緑膿菌にはアズトレオナムは検討の範疇に入っていない。それは、もちろんアズトレオナムが使えない、という意味ではない。アズトレオナムが第一選択、というわけでもない。しかし、耐性菌や副作用で選択肢が限定されているときに、「これはCLSIが認めてないから」といってアズトレオナムを使わないのは短見である。繰り返すが、CLSI基準はツールであり、マントラではない。使いこなすのはプロの僕らであり、(ときに)「使わない」のも僕らの選択肢である。
CLSI基準は道具に過ぎないが、そのことはCLSIを無視してよい、という意味ではもちろんない。全肯定も全否定も思考停止という点においては変わりない。近年、CLSIは肺炎球菌へのペニシリンを復活させたり、dose dependentという臨床的な概念を導入したり、「検査室の基準」からより「臨床的な基準」にシフトしつつある。今後もCLSIはより使いやすい、ユーザーフレンドリーなスタイルを模索し続けるだろう。できれば、無料で情報提供してくれるのが一番フレンドリーな態度なんだけどね。
ある書面や基準を「真理」と見なさず、各論的に吟味することは大事である。その背後には原則が必要だ。その原則とは、「患者の状態」から始めることにある。ESBL産生菌にカルバペネムを使うのか、セフメタゾールを使うのか、AmpC疑いに何を使うのかも、「患者の状態」が規定する。患者から始めず、検査から始めると、絶対に失敗する。近年、各種遺伝子検査や質量分析の進歩は著しいし、PETその他の画像診断技術も発達しているが、「患者から始める」原則を忘れると、やはり先にあるのは失敗しかない。血液培養からなんとかが生えた、質量分析でなんとかと同定された、、でも患者は実は全然別の病気、、、、この手の失敗はものすごくたくさん見てきたし、残念ながら今もよくみる。
アメリカみたいに患者の状態を無視して全部検査結果から標準化、は妥当な医療とは僕は思わない。それは何百年も前にスピノザが主張したことと見事にシンクロしているのである。
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