シリーズ 外科医のための感染症 コラム できる、できないの狭間で
脳外科関係の感染症では、VPシャントなどデバイスが絡んでいることが多いです。
感染症屋としては、異物は全部排除したい。バイオフィルムを残したままでは細菌の内科的治癒は期待できず、再発のリスクが高いです。清潔領域の中枢神経において、これはとても許容できないことです。
一方、脳外科サイドとしては、脳圧亢進があり、水頭症のリスクが高い患者のシャントを抜去するなんて「No Way!」です。
お互いに守りたい原則があり、それらがバッティングするとき、しばしば我々の議論は水掛け論になります。「私の立ち場からはこう思う」とただ自説を主張するだけ。
ドイツの哲学者ヘーゲルは、人間の思考が進んでいくために、ある命題(テーゼ)と対立する命題(アンチテーゼ)を戦わせ、どちらか一方をとるのではなく、さらに上位の考え方(ジンテーゼ)を作り出すのがよいとしました。これが弁証法です。弁証法なんて難しい言葉を使いますが、要するに「対話 ディアレクティーク」のことです。
感染症屋も脳外科医も、「患者がよくなってほしい」という思いは同じです。ただし、見ているものが違う。このとき、感染症屋は「ばい菌だけ殺していればよい」という手前勝手な意見を捨てなければなりません。ばい菌を殺しても、中枢神経が破壊されてしまっては意味がないのだから。ばい菌を殺しつつ、かつ中枢神経を守る、というジンテーゼの模索が必要になります。他者の言葉に耳を傾ける謙虚さや、自説を変える(しかし患者の予後は割引しない)勇気も必要です。
そこで、「とりあえず体外シャントを留置して、VPシャントは抜去し、再度おりをみてVPを再挿入ってのはどうでしょう」。という第三の提案が生まれます。それは妥協ではなく、両者の見解を加味した一つの「最適解」です。
脳外科医にしても、感染症がどうなってもよい、ということではもちろんありません。最終的な目標は水頭症の予防ではありません。水頭症の予防は目的ではなく、手段です。目的は「患者がよくなること」という「もうちょっと大きな話」にあります。そこでは感染症屋との異論はありません。
対話とは自説の押しつけのことではありません。自説を通すことなんて比較的どうでもよいことなのです。大事なのは、異なる立場のプロフェッショナルたちが、いかに自分たちの専門能力を活用して患者に最大限の貢献をするか、です。一般的に、ひとりのプロの力よりも、二人の力の方がその貢献の度合いは高いに決まっています。我々は自分たちとは守備範囲が異なる専門家がいることを呪うのではなく、こころから感謝して、その恩恵を享受するだけなのです。大事なのは、共通の目的を確認しながら、目的に達する方法をともに考える「対話」を続けることなのです。
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