朝日新聞デジタルによると、兵庫県議会の委員会において、自民党の井上英之県議がHIV感染に関し、「社会的に認めるべきじゃないといいますか、行政がホモ(原文まま)の指導をする必要があるのか」「偏った性嗜好で本来ハイリスクは承知でやっている人たちのこと。他にも重要課題がある中、行政が率先して対応する必要はない」と述べたという。
すでに(分かっているだけで)2万人以上いるHIV感染者/AIDS患者だが、新規患者の発生が止まらない。
2012年のデータでは兵庫県の新規HIV感染者は27名(全国7位)、AIDS患者は18名(全国6位)であった。神戸大病院でも毎月のように新患が紹介されている。抜本的な治癒法がなく、生涯にわたる通院/治療が必要な本感染症の生涯医療費は1億円とも言われる(今後の治療法の開発でさらに高額になる可能性もある)。純粋に医療問題として、兵庫県がHIV/AIDSに無関心でいることは、とうてい容認できないであろう。
HIV感染は血液、(一部の)体液などから起きるが、日本の場合、男性同性愛者(MSM)間の感染が多いのが特徴である。もちろん、異性間での感染も起きるし、残念ながら今でも献血などからの感染も起こりうる。しかしながら、医療問題はプライオリティの高い順番に対策を立てていくのが当然であり、日本のHIV/AIDS対策においてMSMに力点をおくのは当然である。
井上議員の発言がどのような文脈でどういう意図で行われたのか、ぼくは知らない(議事録も本稿執筆時点では公開されていない)。しかし、上に述べた理由から、兵庫県がHIV/AIDS対策に無関心ではいけないこと、MSMを無視した形でのHIV/AIDS対策が「ありえない」ことは自明である。井上議員の発言は、シンプルに行政/公衆衛生/医学的に間違っている。
同性愛者の定義にもよるが、アメリカ、イギリス、フランスだとだいたい1、2割程度の人が同性愛者的な傾向を持っているそうだ(Journal of Homosexuality. 1998;36(2):1–18)。日本でも男性の少なくとも数パーセントは男性とのセックス経験を持つ男性(MSM)だと思われる(Sex Health. 2011 Mar;8(1):123–4)。同性愛者になりやすさは、遺伝子の影響も関与している可能性がある(Science. 1993 Jul 16;261(5119):321–7など)。
明治時代までは日本も性に関してはわりとおおらかで、同性愛も(少なくとも男性間は)そんなにタブー視されていなかった。しかし、明治時代以降、西洋文明(キリスト教文明)が入ってきて、同性愛はタブー視されるようになる。西洋では、古代ギリシアの哲学者ソクラテスが同性愛者だったことが知られてるし、やはり同性愛に対する寛容がある程度あったようだ。ところが、キリスト教社会となった西洋がだんだん同性愛をタブー視するようになり、同性愛者は差別の対象となってきた。
LGBTという言葉がある。性的なマイノリティ(少数派)を指した言葉である。これはレズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシャル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の頭文字をとった言葉で、レズビアンとは女性の同性愛者のこと、ゲイとは男性の同性愛者、異性、同性どちらも愛するのがバイセクシャル。トランスジェンダー、というのは身体が男なのに、心は女性、あるいはその逆の状態を言う。
2014年2月11日の朝日新聞によると、日本人成人の約5%がLGBTなんだそうだ。5%というと、クラスには必ずひとりいるくらいの割合である。もうこういうのをマイノリティと呼ぶべきかどうかも、微妙である。例えば、緑内障は40歳以上の20人にひとりがかかっているが、緑内障の患者さんを「マイノリティ」なんて呼ばない。LGBTの市場規模は5.7兆円なのだそうで、世界の多くの社会では、LGBTがいる、ということを前提にした社会になりつつある。
というわけで、くだんの井上議員には、自分の発言がクラスの同級生にも該当者がいる可能性が高い、という前提で、もう一度振り返っていただきたい。彼(彼女)を目の前にして、同じ発言ができるかどうか、そういうパーソナルな問題として再考していただきたい。
井上議員がデビリッシュな「悪人」であるならば、もうこれは仕方のないことだ。無知な悪人に言う言葉は見つからない。しかし、ここでは井上議員を単に無知で善良な一般的な県議であるという前提で(そうであるとよいな、という期待を込めて)論じている。
そうでなくても、兵庫県/神戸市はHIV/AIDSと人権に関して暗い過去を持っている。1980年代には神戸市で見つかったAIDS患者の報道で大パニックが起きた(もっとも、問題は兵庫県の問題というか、そこに大挙したメディアの問題でもあるのだが)。2006年には県職員(医師)が中学生への性教育の授業で「エイズ患者は早く死ね」と発言して問題となった。(訂正します。詳しくはこちらを)。
リスク行為のある患者を排除するような医療は非常に簡単な医療である。しかし、我々はリスク行為のある患者を否定しないような形で提供する医療、もっと難しく、もっと質の高い医療を目指している。それは、「己の生き方とは異なる生き方をする人を、否定しないような形で医療を行う」という民主主義の根本「他者の自由を尊重する」という根本を守った形での医療である。
もちろん、医療とは医療者のみで行うものではなく、行政なども含めて大きく広い形で構築していくものである。県議も当然、兵庫の医療にコミットするプレイヤーの一人である。そのプレイヤーから、くだんのような発言がなされることを、医療の末端にいる一プレイヤーであるぼくは非常に残念に思うのだ。
これまた残念ながら、HIV診療を拒否する事例も報道されている。HIV感染があってもなくても「普通に」診療できるのは、「常識」であり、常識がいまだに定着しない日本の診療現場の残念っぷりを示している。
兵庫県にもHIV患者の診療を拒否するけしからん医療者がいる。今は名前は出さないけれど、名前もこちらで把握している。こういう「非常識さ」を許容しないこと。常識が常識として定着すること。こういう残念なブログを二度と書かなくてもよいような状態になることを、心から祈っている。
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