今書いている本からの抜粋です。
日本ではまだ、別姓は認められていません。
やってみれば分かりますが、これはけっこう大変なことです。事務手続きとか、書類上の扱いとか、もう面倒くさいことばかりです。
ぼくは夫婦が同姓でいることにはまったく異論はありません。そういうあり方も当然「あり」だと思っています。
問題は、なぜ「夫婦別姓」という異なるオプションを全否定してしまうのか、ということです。他者に対する寛容を重視するならば、これは非常にヘンテコな論理です。自分のあり方を、他人とあわせなければいけない、という古い昭和の同調圧力です。
よく、「夫婦同姓は日本古来の文化である」なんて言い方もされます。でも、そもそも日本では、平民においては「姓」なんて存在しなかったんです。慣習的に屋号などはあったようですが、それはあくまで「慣習」にすぎず、制度でもなければ文化とも呼べないでしょう。平民が苗字を名乗ることを許されるようになったのは、明治時代になってからのことなのです。
ジャーナリストの櫻井よしこ氏は、夫婦別姓に反対しています。それが日本古来の伝統文化だからというのです。ちょっと長いですけど、引用します。
夫婦別姓を是とする人びとのなかに、女性の自立や人格の尊重を理由とする人は少なくない。仕事を続けるとき結婚によって姓が変わるのは、通常、姓が変わらない男性に比べて不公平で女性の権利の侵害だとする声もある。
後者については、現在も許されている「通称」で解決する問題ではないか。結婚後も旧姓で仕事を続けることは可能で、その実例も少なくない。
前者の理由についても、歴史を振り返り、他国の例を見れば、姓が変わることをもって「女性の自立や人格」が損なわれるという考えが的はずれであることがわかる。
韓国では、結婚後も女性は旧姓を名乗る。女性運動が華やかだった1960~70年代に、韓国の事例は女性蔑視の例として語られたものだ。差別するがゆえに、夫と同じ姓を名乗らせず、族譜(家系図)にも載せないのだといわれた。
その説明の正否は、ここでの重要事ではない。重要なのは、韓国の場合も含めて、すべての国の家族制度のあり方は、その国の文化文明、価値観を反映しているということだ。日本には日本の家族制度があり、それは私たちの文化文明であり、先人たちが長い期間をかけて築き上げた価値観だ。
では、日本の女性たちは自立もできず、人格も尊重されずに生きてきたのか。答えは否であろう。日本の女性たちが、同時代の欧米の女性たちに比べてどれほど力を持っていたかについて、多くの人びとが書き残している。渡辺京二氏の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)には外国人が見た日本の女性の生き生きとした姿が多出する。長岡藩の城代家老の娘、杉本鉞子の『武士の娘』(ちくま文庫)には、日本の女性たちが手にしていた現実生活における力の程が描写されている。
週間ダイヤモンド2010年2月13日号より
歴史を振り返るとどうだかは、ぼくは知りません。でも、「今の」日本女性が「今の」欧米の女性たちより力を持っていないことだけは間違いありません。そして、ぼくは「今の女性」の夫婦別姓の許容が大事だ、と言っているのです。櫻井氏の意見は、歴史知識を乱用して議論を混乱させているに過ぎません。「姓が変わることをもって「女性の自立や人格」が損なわれるという考えが的はずれである」、と彼女は言いますが、それは「姓が変わらないこと」を否定する根拠としては乏しいのです。なによりも、困っているのは櫻井氏ではなく、ぼくらの多くの同僚たちなのです。例えば、医師免許など、「書類関係」は「通称」ではうまくいきません。あれこれ書き換えるのは本当に面倒なんですよ。実際に面倒な目に遭っている人がいるわけで、それを知らない櫻井氏が上からああだこうだというのは見当違いも甚だしい。
夫婦別姓は女性を「家」に入れない女性蔑視である、なんて詭弁もありますが、こんなの、主観の問題です。家に入れることの価値がどれくらいあるか、ぼくには分かりませんが、それも「選択肢」の問題です。女性がそれと望んで別姓を望んだ場合、「あなたの選択はあなたを蔑視することですよ」と他人がおせっかいにも入り込む権利がどこにあるというのでしょう。余計なお世話、というものです。
子どもが夫婦別姓だと苦痛に思う、という意見もあります。ぼくも実は、そういう意見をかつて持っていました。でも、これも第三者による「余計なお世話」だと思います。子どもが苦痛に思うかどうか否かは、やってみなければ分かりません。少なくとも、「苦痛に思うはずだ」と決めつける理由はありません。苦痛に思った場合のみ、それを問題にして議論すればよいだけの話です。もし、苦痛に思わなければ。そこで議論は終了です。実にバカバカしい話だと思います。現に諸外国では夫婦別姓のカップルは多いですが、それで苦しんだりいじめられたなんて話は聞いたことがありません。また、それでいじめられるとしたら、それは「いじめるほう」が絶対に悪いのです。同様のロジック(いじめられるといけない)はシングルマザーとかを議論するときにも言われますが、そのような考え方そのものが差別的であることに気づいていないんですね。
多様な価値観を認める豊かな社会をぼくは希求します。みんなが同じでなければならない、という古い同調圧力から「他人は自分と違っていてもよい(同じであっても、もちろんよい)」という寛容な、そして成熟した社会へと日本は成熟すべきなのです。
現在の日本でも、5%だか10%だかは夫が改姓しているということであったと思います。(詳しい数字は忘れました。)
こうした少数派を無視したまま議論が進められていることが、少し寂しく感じられます。
「夫婦同姓は日本の伝統」と主張する人は、「夫が改姓しても妻が改姓しても良い」という現行制度を、どう考えているのでしょうかね。
投稿情報: 川口真一 | 2014/05/23 23:47