4月である。桜もピークがすぎ、オリエンテーションも終わって本格的な新年度が始まった。
本日の回診では、新フェロー、1年目、2年目の研修医、6年生というフレッシュなメンバーが加わってカンファルームはすでにいっぱいである。来週からはこれに5年生が加わる。
ぼくは神戸大赴任時から卒後臨床研修センター、次いで総合臨床教育センターの副センター長をやってきたが、今年からこの任を解かれている。
この6年、神戸大の初期研修は、大きく質を向上させたと確信している。指導医の質も、指導の質もとてもよくなり、研究環境も改善した、はずだ。学生教育も含め、そのへんの改変は医学教育学会にも発表され、その多くは神戸大の学生自身が発表している。
しかし、そのようなぼくの確信は主観に過ぎない。
初期研修のよさはマッチ率とか、なんとか満足度とか、なんとか評価のような数値化で測れるものではないと思う。それは、むしろ絵画とか、スポーツチームとか、音楽の評価のようなものだと思う。しかしながら、そのような思いが既に主観である。各々が異なる教育観を持っており、望ましい教育のアウトカム観を抱いている。したがって、ぼくのこの6年が「ある種の」価値観を満足させなかった可能性は、十分にある。
ぼくはセンターでは初期研修担当だったが、おせじにも十全に初期研修医にコミットしてきたとは言いがたい。とにかくやることが多すぎて、雑多すぎて、初期研修医一人一人の顔と名前を覚えることもままならなかったくらいである(これは、前任地と比べると恐ろしいほどの違いである)。今日も回診途中で、学生の授業に抜けなければならなかった。このようなセグメンタルな態度では、どのセクションについても満足のいく仕事ができたとは言いがたい。今後も、このようなセグメンタル状態が大きく改善するとは考えがたい。
でも、初期研修については研修医に十全にコミットしてくれる素晴らしいスタッフを得ることができた。彼女は昨年度のベストティーチャー賞に選ばれ、彼女を選んだ初期研修医たちの「目の高さ」にぼくはいたく満足した。この僥倖に感謝し、今後も研修医たちを支えてくれることを心から願っている。とくに、これまでずっと尽力してきた「落ちこぼれそうになった研修医に居場所と存在意義を与える」仕事がしっかりと行われ続けることを期待している。
むしろ、足元をしっかりさせることのほうが大切だ。今年の感染症内科、新規フェロー(後期研修医)は4名。彼らを3年で1人前にしなければならない。2年目フェローは2人。彼らにはもう2年しかない。今年はパートタイムを含めて指導医クラス(あくまで臨床的な意味で)5名でいく。でも、とにかくみんな、あれやこれやのやることが多すぎて、今年も突貫工事の連続だろう。この3年間で4人も選ばれた「ベストティーチャー賞」受賞者も、すでに2人は別の施設にいる(良い人ほど外に出す、の原則からは、これは望ましい判断だけど)。そいえば、ベストレジデント、ベストティーチャー賞の創設を提案したのもぼくだったな、、、、
本来、「マニアックな感染症を見るのは初期研修医のミッションにはあわない」と初期研修医のローテーションは断ってきた。しかし、基本的な病歴聴取、身体診察、アセスメント、そして「考えること」を教える必要から、2年目初期研修医も、後に1年目の研修医も引き受けるようになった。今年は1年目が13人、2年目が(まだ前期だけだが)8名まわることになっている。研修医がとりあえず飛びつきたい、「手技もの」がない内科系にしては、かなりの数である。
マニアックな診療をしながら基本的なことを教えるのは相当難儀だが、もはや「難儀である」は何をやることに対しても言い訳にはならない状態になっている。
なにが正しい初期研修か、何がそもそも正しい教育なのか、ぼくにはわからない。誰かには分かっているのだろうか。しかし、見るべき方向は分かっている。それは、研修医の方だ。その先にある患者の方だ。その目線の先にあるものが間違っていないことが、前提だ。そこから先は、試行錯誤の連続なのだけれど。
昨夜南アフリカの学会発表から帰ってきた。数年前から講演はほとんどお断りし、とくにウィークデーのそれは原則引き受けていない。これからは学会発表も原則ゼロにし、論文などによるアウトプットに専念しよう。往復時間が無駄すぎる。あ、そうか。役職が一つ減るのは、そういう意味では、とてもよいことなのだ、実は。
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