宮崎県議会議員 清山知憲先生は沖縄県立中部病院で研修の後、ニューヨークのベスイスラエル・メディカルセンターでも内科研修をしている。個人的にも面識があり、その知性と正義感には心から敬意を表するものである。たまたまぼくのほうが生まれた年は早いが、先輩風をふかせる気は毛頭ない。だいたい、今の日本は、ぼくやぼくの上の世代より、ぼくらより年少の人の方がしっかりしていることが多い。
が、今回の清山先生の靖国神社論、安倍首相の靖国神社公式参拝擁護論には反論する。日本にありがちな、各論的批判と人物否定をごちゃごちゃにする気はない。今でも清山先生は尊敬すべき、日本のリーダーの一人である。靖国だけでなく、日本の精神史についてもたくさん勉強されているのも承知のうえである。
清山先生は、今回の安倍首相の靖国参拝が軽率なメディアによって過度に政治問題化、外交問題化しているという。言い換えれば、清山先生も安倍首相も靖国参拝は「政治問題、外交問題ではない」と主張している、いう意味であろう。
しかし、言うまでもなくこの問題は政治問題であり、かつ外交問題である。清山先生、安倍首相がどのように意図しようとそうである。政治問題や外交問題は、そもそも個人の思惑とか本意とは関係ないのである。社会が、諸外国が、それを問題と捉えた時、それは政治問題化し、外交問題化する。
日本における慰霊・鎮魂の形とは極めて固有なものであるかどうか、ぼくは知らない。人類学的に言えば、むしろ相対的なものではないかとは感じるが、まあ百歩譲ってこの意見を正しいものとしよう。
日本人が日本の祖先、日本の死者を、日本独自のやり方で慰霊、鎮魂することについては全く異論がない。ぼく自身もそうしている。それを諸外国は「一般的には」尊重すべきだし、不当に非難するべきではない。
であれば、安倍首相はなぜ幕末以来の先達のみが奉られた靖国神社を限定的に公式に参拝するのか。日本の建国、繁栄に貢献した人は幕末以来のひとばかりではあるまい。国引き神話など、日本の建国を尊重して出雲大社や八重垣神社を公式参拝したり、楠木正成に敬意を表して湊川神社を公式参拝したり、徳川家康に敬意を表して日光東照宮を公式参拝すればよい。楠木正成と徳川家康を同列に扱うのはおかしいじゃないか、という意見もあるかもしれないが、それこそ「政治問題化」である。日本のためにがんばった先祖はイデオロギーや立場を超えてすべて等しく慰霊、鎮魂するのが「政治問題」ではないやり方での先祖に対する敬意の表明のあり方なはずだ。
なのに、安倍首相はそうはしない。あくまでピンポイントに幕末以降の慰霊、鎮魂だけを特殊化する。他のご先祖はどうでもよいのだろうか。それこそ、「政治的判断」とよぶべきではないだろうか。その偏向した態度が外交上問題とされるのは当然ではないだろうか。
ましてや、安倍首相は一期政権時代は公式参拝を見送っている。祖先に対する敬意が数年で変化したとは考えづらい。当時は「政治的な配慮」で参拝を見送ったに決まっている。今回は「政治的な判断」で(それが上手くいったかどうかは別にして)参拝という判断を決めたに決まっている。そのような政治的配慮は国内に、国外に向けて行われているに決まっている。そのような首相の思惑を考えれば、メディアがこの参拝を政治問題化、外交問題化するのは当然である(そのあり方の妥当性は別にしても、だ)。
ぼくは愛国主義者であるから、日本の利益や日本のプレゼンスを非常に重要視する。靖国神社に祀られている多くの先達たちも同じ気持ちだと拝察する。彼らは、日本を外交上不利な立場に陥れるような安倍首相の行動を「愛国者」として是認するであろうか。ぼくはそうは思わない。「おいおい、日本のプレゼンスをわざわざ下げてどうすんの。ちょっとは考えてくれよ」という先達の苦言がむしろ聞こえてくると思わないだろうか。
「極東国際軍事裁判」や「A級戦犯」に対する歴史認識はぼくも清山先生もほとんど同じである。だからこそ、シンボリックな靖国参拝で周りの国をかっとさせるのではなく、その歴史的経緯について対話を重ねることこそ、日本の立場を表明する最適な選択肢である。周囲が理解し、認めてくれるのであれば、正々堂々と靖国でも生田神社でも公式参拝すればよいのである。
愛国精神は大事だが、熱き魂とクールヘッドは常に同居すべきである。過度に肥大化した愛国精神が逆説的に国を滅ぼした例を、ぼくらは(自国例を含め)たくさん知っているのではないだろうか。
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