献本御礼。
新潟大学小児科教授の齋藤昭彦先生は非常にストイックな方である。それは本書の「監訳の序」を読んでも分かる。
齋藤先生の言葉は実に正しい。多くの国のドクターは自国語で書かれた医学書を持たない。必要に迫られて彼らは英語で書かれたオーセンティックな教科書を読むのだ。繰り返し、繰り返し。ぼくはペルーで、カンボジアで、中国で、いろいろな国でオーセンティックな教科書がボロボロになるまで読み込まれてきたのを見てきた。
翻って、日本ではどうだろう。オーセンティックな教科書はたいてい和訳されている。原書を読み込む医師はごく少数派であり、翻訳版を読むものすらさほど多くない。教科書は学的知識の全てではないが、学的知識の前提である。その教科書すらちゃんと読まずに診療を行っている医師のいかに多いことか。アンチョコ本を使うのならまだましで、感染症については(ついても?)「適当」「思いつき」「口伝えの伝承」「MRの甘言」が判断基準になっていることが多い。
かくいう僕も、オーセンティックな教科書を読み込むのが苦手な方だ。英語を読むより日本語を読むのがはるかに速いのもまた事実で、医学書にしろ小説にしろ、翻訳の恩恵を大いに受けている。ぼくは齋藤先生ほどマジメでもストイックでもない「がゆえに」翻訳を、そして監訳を一所懸命に行なう。条件がないと勉強しない怠惰のためであり、原書を読み、訳文を読み、それを突き合わせるというかなり面倒な作業を自らに強いないと事物を覚えられない、自身の記憶力のなさのためでもある。英語と日本語のどちらも苦手なため、両者の勉強を強いられる翻訳は、怠惰な自分には誠に結構な足かせである。まあ、それはそれとして、翻訳は知的営為としてはかなりの快楽なので、単なる苦行でもないが。
要するに、ぼくは翻訳を八割方自分のために行っている。残りの二割は、そんなに多くはない読者の恩恵(翻訳本は日本ではあまり売れない)と極めて僅かな印税に(翻訳の印税は微々たるもので、売れなければそれはさらにそうである)帰される。不実なものである。
齋藤先生はぼくなんかよりもはるかに誠実な人物だ。コーランはアラビア語で書かれており、その翻訳は原則として許されていない。その根拠は齋藤先生の指摘したとおりである。一方、旧約・新約聖書はグーテンベルグの活版印刷とルターのドイツ語訳で劇的にその読者を増やした。齋藤先生は、翻訳がもたらす堕落と誤解(誤訳)の弊害を十分に理解しつつ、その恩恵の側面を重ねて考え、「使命」として監訳の労をとったのである。
監訳は極めて大変な仕事である(英語と日本語両方読んで、両者を突き合わせるという作業はやってみるとすごく大変です。丸投げにしなければ)。それは使命感のような、強固なつっかえ棒なくしてそうそうできることではない。
訳書の購読は「他者との邂逅」でもある。アメリカの事情が本書購読から透けて見える。市中MRSAと肥満児にそれぞれ1章ずつ割いていることから、両者がいかにアメリカ小児感染症治療学的に大きなウエイトを占めていることを計り知ることができる。単なるマニュアル本としてではなく、本書はそういうメタな読み方も可能である。
感染症専門医は日本では絶滅種であるが、小児感染症の専門家はさらに希少種である。しかし、小児医療において感染症はあまりに普遍的である。その巨大なギャップを考えなおす意味でも、本書はアダルトIDのプロが、一般小児科医が、それぞれマニュアル以上のメタな購読を可能とする。「他者との邂逅」は知性をドライブする最良の手段である。我が身と我が診療を振り返る道具、鏡でもある。
だから、「あれはアメリカの教科書だから」と本書を手に取り、肩をすくめて冷笑するのはあまりに短見である。
読書とは要するに、書き手と読み手の共同作業にてその価値が増幅されるのだ。「読むに値しない書物」と読者が断じる時、それが読者の側に問題があることが案外多いことに、ほとんどの人は自覚的でない(書き手は書評にて評価されるが、読み手の読み方はほとんど評価の対象にならないからである)。ぼくも初読で軽んじた書物の多くが、再読で突き上げるような感動を覚え、自らの幼さを恥じた経験を死にたいほど繰り返しているので、そこはよく分かる。キューブリックの「2001年宇宙の旅」は最初に観た時、当時のぼくには「このうえなく退屈なクソ映画」だったのだが、もちろん映画史上に残る最高傑作のひとつである。
本書はマニアックにして普遍的というアクロバティックな領域を扱う本である。本書を読者が選ぶのではない、読者が本書に選ばれているのである。そう覚悟して読まねばならない。
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