良い本を読ませていただいた。内容も文体も最高です。知性とはこういうものをいうのだと思った。
大山(巌)伝の中に、息子の回想がのっていて、彼がおそるおそる「総司令官てなにをするんですか」とたずねると、「知ってることでも、知らんようにきくことよ」という答えが返ってきたという。
この戦争で、日本が米国に負けることはわかっている。日本が正しいと思っているわけではない。しかし、負けるときには負ける側にいたいという気がした。
(中略)
それは、ぼんやりとした見通しで、しかし六十二年たった今ふりかえっても、後悔しない。ぼんやりしているが、自分にとってしっかりとした思想というものは、あると思う。
、あると思う。の読点が素晴らしい、と思う。
新渡戸稲造は、日本で学校を終えて、米国のジョンズ・ホプキンス大学に留学した。社会学の先生に試問されたとき、スペンサーならば、どのページに何が書いてあるかまでおぼえているので、彼の用語についてどんなむずかしい質問にも答えられるつもりだった。ところが、「スペンサーをどう思うか」という質問をはじめにされたのでとても困ったという。そこから定義を墨守しない新渡戸流の学問の転回がはじまった。
自分で定義をするとき、その定義のとおりに言葉を使ってみて、不都合が生じたら直す。
自分の定義でとらえることができないとき、経験が定義のふちをあふれそうになる。あふれてもいいではないか。そのときの手ごたえ、そのはずみを得て、考えがのびてゆく。
明治以後の日本の学問には、そういうところがあまりなかった。
同席した日本人の学者たちが、英語を使ってリースマンに質問し、またリースマンの質問に直接答えた中で、梅棹忠夫は、通訳を介して受け答えをした。
どうして彼だけが通訳をとおしたのかというリースマンの質問に答えて、
「私の考えは、私の下手な英語ではうまく言いあらわすことができません。」
これは、英語についての謙遜と思想についての自信の両者をそなえた表現である。
ルース・ベネディクト(日本に一度も来たことがなく、日本語を学ぶこともなく)が日本文化を「恥の文化」とおおざっぱに規定したのに対して、作田啓一は、日本文化の流れに恥とは別に「はじらい」の感覚があることを、太宰治の作品の分析をとおしてくり広げた。
[尊皇攘夷」という合い言葉がはやらなくなって、そのうち「尊皇」だけが残り、新しい政府の下に、西洋の習慣が取り入れられるようになった。それからのこと、「□□はもう古い」というのが知識人の言葉づかいの中に棲みついて、百五十年近くになる。
私は日本に戻ってきて大学に就職してから、ホッブズ、ルソー、マルクス、レーニンと段階的に進歩してゆくことが共同研究各人の前提となっていることに当惑した。
日本の知識人は記憶が短い。このことは、明治以来の学校制度と結びつく。(それは)
①先生が問題を出す
②その正しい答えとは先生の出す答えだ、
という前提にたっており、生徒自身がそれぞれ六歳までに知っていることの中から自分で問題をつくり、答えを出すという習慣は除外される。
イラクに行って戦争下のイラク人への支援をした日本人三人が、イラク人の人質になった時、日本の内閣と与党から、「自己責任」という言葉が出て、やがて「反日分子」という言葉まで、国会議員が使うようになった。米国の国務長官だったパウエルは、こういう人が日本人の中から現れることが、あなたがたの誇りである、こういう人が社会を前に進めるのだ、と言った。
すべて人間として生まれた者は、差別の対象とされてはならない。これは、憲法起草委員会に最年少の委員として加わった二十二歳のベアテ・シロタが書いた草案である。この草案は、日本国憲法の最終案には活かされていない。この欠落は、日本の戦後史に残ったさまざまの差別を温存させ、また加速させた。
私は、六十歳のとき、韓国語を学んだ。先生は優秀だったが、生徒が悪かった。この二年ほどの学習の失敗は、私にひとつの財産を残した。それは、自分が、これまで思っていたほどに頭がよくないという認識である。この認識は、おくればせながら、これから残された人生に役にたつ。
もうひとつ、差別される者の側から日本語に対するとき、どう感じられるか。その方向に向かって自分の想像力が働くいとぐちをあたえられた。
声を出して、子どもに絵本を読んできかせることは、人生をもう一度生きることである。
ところが歴史のない国、正確には先住民の歴史の抹殺の上につくられた開拓民の国アメリカでは、「金儲けの楽しさ」は妨げるものをもたずに展開していくことになる。トクヴィル的に述べれば、自分の富の増大と地位の向上をめざすことが人間の使命だというような精神が社会を覆っていったのである。そしてそのアメリカが世界の経済、政治、軍事の中心に座ったとき、伝統的なものと奥の方で結ばれているそれぞれの社会の抵抗する精神は、その力を弱体化させていった。
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長い間、ぼくはまったく外部からは理解されることのない存在ではないか、、と心細く思うことが多かった。だれもぼくの言葉を歪曲し、単純化し、定義し、スローガン化し、罵倒され、冷笑される。苦々しい思いだけが募っていた。それは、今もそうだ。
が、そんなことはない。この老人は自分の思想の最大の理解者だと(勝手に)得心した。言葉が全く通じずに異国で苦労したエピソードもシンクロニシティを高めてくれる。自分がすっくと立っている場所の基盤が、また得られた。読書はこういう機能も持つ。
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