最近、漫画の「美味しんぼ」を読み直している。20巻までくらい、初期の、80年代のほうだ。ipadって長期連載の漫画を読むのに最適なツールですね。僕の中では小説(特に洋書)はiphone、その他の本は紙、医学書でもの調べるときはパソコンでオンライン、そして漫画はipadと住み分けができつつある。それぞれの取り柄を活かして使い分ければよいので、紙か、電子かみたいな議論は馬鹿馬鹿しい。
話がそれた。
「美味しんぼ」を初めて読んだのは僕が中学生か、高校生の頃だ。知らない食べ物がたくさん出てくること、それとわかりやすい対決型のストーリー展開で面白いなあ、と思って読んでいた。捕鯨を禁止してはいけない、という問題について初めて考えさせられたのもこの漫画で、このテーマは「ためらいのリアル医療倫理」や、来月出る「リスクの食べ方」でも議論している。
その反面、作者の偏った観点に子供ながらになんだかなあ、とも思っていた。化学調味料や農薬など「自然でないもの」は絶対悪とし、昔からあるものはよくて、現代のものはダメという決めつけも気に入らなかった。その割に塩とか油とか酒のような「自然のもの」に対する健康被害にはまったく無頓着で、偏向した環境保護団体のようなイヤラシさを感じたのだ。寄生虫についてなど、感染症に関する知識も偏っていてバランスが悪い(ま、これはプロの目から見ているので厳しい評価かもしれないけど)。
おっさんになった21世紀の今思い返す。この漫画のメッセージは基本「アンチバブル」だったのだなあ、と。ぼくは辺境のまた辺境の島根県で本を読んだり野山を自転車で走り回ったりサッカーボールを追っかけたりしてバブルとはまったく無縁な人生だったけど(ついでにバブル崩壊とも全く無関係に生きてきたけど)、「美味しんぼ」を読み返すと、80年代のバブル時代がいかに日本人の精神をダメにしていたのか、そしてそれが諸外国の人にとってどんなに醜くうつっていたのかが容易に想像できる。そのような金満日本で歪みに歪んだ精神が、歪みに歪んだ食べ物に反映される。
「美味しんぼ」の主人公、山岡士郎は半社会的で反骨精神の塊のような人物だ。彼のライバルにして父親の海原雄山もまた、異なる表現型の反骨精神の持ち主だ。両者ともに日本文化や日本の精神をこよなく愛し、それが故にバブルジャパンの歪んだ日本に強烈な怒りを感じている。「昔はよかった」というメッセージが強くなるのは、当然だ。
まあ、「はじめの一歩」でも「こち亀」でも、「ゴルゴ13」でも、長く続く漫画は伊達ではない。「美味しんぼ」は色々批判されてきたし、僕も上記のように批判的だったけれども、そのような批判や欠点にもかかわらず、人の心をつかみ、愛され続ける理由を持っている。そうでなければ何十年と続くロングセラーになるわけがない。
「美味しんぼ」の場合、食べ物という日本人の心を鷲掴みにするテーマがよかったのはもちろんだが、星の数ほどある食べ物漫画でもここまで長く続いているものはない。今読み直すと、憎々しげな海原雄山はいつも教訓的で、山岡に食の精神を指南し続けている(それも、初期から)。父と息子の葛藤は神話の時代から続く普遍的なテーマだし、シニアが身の程知らずの若僧を教えるというテーマは黒澤明の映画に繰り返し見られる、日本人好みのテーマである。今読み返すと、初期の「美味しんぼ」はバブル時代の浮かれた日本人に対する楔として、ポピュラーな漫画の姿を借りて実にうまく作られている。
いま、ぼくらが口にする食事やお茶やビールや日本酒が美味しい(ものが多い)のも、この漫画が消費者のレベルを上げてくれたおかげ、という部分は多いと思う。「美味しんぼ」が繰り返し批判する「大手の食品メーカー」は、この漫画以降、そうそういい加減なものは作らなくなり、またよいものを消費者が評価し、購入する流れができてきたのだ。麦芽100%のビール、純米酒、無農薬野菜、「本物の」塩、、、、良質の食材と料理を、今ならわりと簡単に手に入れることができる。
ただし、(ほとんどのものがそうであるように)「美味しんぼ」のもたらした副作用もある。
そもそも「美味しんぼ」は、「新聞やテレビを盲信せず、自分の頭で考えようよ」と提案していたのに、その「美味しんぼ」が権威と化し、「美味しんぼにそう書いてあるから」という理由で特定の食べ物をバッシングしたりネットでレストランを酷評したりする変な副作用が出てしまった。これも一種の思考停止だよね。無農薬の野菜でないとダメ、輸入食品はダメ、養殖の魚はダメ、みたいな変な決め付けが出てきてしまう。
とはいえ、80年代は冗談のように使われた化学調味料や農薬や除草剤も、21世紀の今となってはある程度相対化して見ることができるようになった。無農薬で野菜をつくるのは本当に大変だ(ちょっとやってみたけど、虫さんにはかないません!)。過度な「オーガニック」な食品希求は農業に対する強烈なエゴを生む(最近、Annals of Internal Medicineでオーガニックな食品と健康には関連がないことを示す論文がでていた)。「発がん物質」みたいな、ネーミングだけで悪者扱いにする風潮は、現在の「放射能」に対する全否定や思考停止にもつながっている。「食の安全」というキーワードで思考停止する人は本当に多い。
もやしもんでは、化学調味料も農薬も相対化し、病原体も相対化し、食中毒も相対化し、リスクの双方向性を上手に伝える。「これは正しく、あっちは間違っている」という「美味しんぼ」の切実ではあるが、平坦な(そして20世紀的な)世界観よりも少し成長している。「酒のほそ道」もそうですね。ジャンクで政治的に正しくないなB級、C級の食べ物も慈しみを持って扱われている。これが21世紀の日本の空気なんだと、僕は思う。
話がそれた。
「美味しんぼ」を初めて読んだのは僕が中学生か、高校生の頃だ。知らない食べ物がたくさん出てくること、それとわかりやすい対決型のストーリー展開で面白いなあ、と思って読んでいた。捕鯨を禁止してはいけない、という問題について初めて考えさせられたのもこの漫画で、このテーマは「ためらいのリアル医療倫理」や、来月出る「リスクの食べ方」でも議論している。
その反面、作者の偏った観点に子供ながらになんだかなあ、とも思っていた。化学調味料や農薬など「自然でないもの」は絶対悪とし、昔からあるものはよくて、現代のものはダメという決めつけも気に入らなかった。その割に塩とか油とか酒のような「自然のもの」に対する健康被害にはまったく無頓着で、偏向した環境保護団体のようなイヤラシさを感じたのだ。寄生虫についてなど、感染症に関する知識も偏っていてバランスが悪い(ま、これはプロの目から見ているので厳しい評価かもしれないけど)。
おっさんになった21世紀の今思い返す。この漫画のメッセージは基本「アンチバブル」だったのだなあ、と。ぼくは辺境のまた辺境の島根県で本を読んだり野山を自転車で走り回ったりサッカーボールを追っかけたりしてバブルとはまったく無縁な人生だったけど(ついでにバブル崩壊とも全く無関係に生きてきたけど)、「美味しんぼ」を読み返すと、80年代のバブル時代がいかに日本人の精神をダメにしていたのか、そしてそれが諸外国の人にとってどんなに醜くうつっていたのかが容易に想像できる。そのような金満日本で歪みに歪んだ精神が、歪みに歪んだ食べ物に反映される。
「美味しんぼ」の主人公、山岡士郎は半社会的で反骨精神の塊のような人物だ。彼のライバルにして父親の海原雄山もまた、異なる表現型の反骨精神の持ち主だ。両者ともに日本文化や日本の精神をこよなく愛し、それが故にバブルジャパンの歪んだ日本に強烈な怒りを感じている。「昔はよかった」というメッセージが強くなるのは、当然だ。
まあ、「はじめの一歩」でも「こち亀」でも、「ゴルゴ13」でも、長く続く漫画は伊達ではない。「美味しんぼ」は色々批判されてきたし、僕も上記のように批判的だったけれども、そのような批判や欠点にもかかわらず、人の心をつかみ、愛され続ける理由を持っている。そうでなければ何十年と続くロングセラーになるわけがない。
「美味しんぼ」の場合、食べ物という日本人の心を鷲掴みにするテーマがよかったのはもちろんだが、星の数ほどある食べ物漫画でもここまで長く続いているものはない。今読み直すと、憎々しげな海原雄山はいつも教訓的で、山岡に食の精神を指南し続けている(それも、初期から)。父と息子の葛藤は神話の時代から続く普遍的なテーマだし、シニアが身の程知らずの若僧を教えるというテーマは黒澤明の映画に繰り返し見られる、日本人好みのテーマである。今読み返すと、初期の「美味しんぼ」はバブル時代の浮かれた日本人に対する楔として、ポピュラーな漫画の姿を借りて実にうまく作られている。
いま、ぼくらが口にする食事やお茶やビールや日本酒が美味しい(ものが多い)のも、この漫画が消費者のレベルを上げてくれたおかげ、という部分は多いと思う。「美味しんぼ」が繰り返し批判する「大手の食品メーカー」は、この漫画以降、そうそういい加減なものは作らなくなり、またよいものを消費者が評価し、購入する流れができてきたのだ。麦芽100%のビール、純米酒、無農薬野菜、「本物の」塩、、、、良質の食材と料理を、今ならわりと簡単に手に入れることができる。
ただし、(ほとんどのものがそうであるように)「美味しんぼ」のもたらした副作用もある。
そもそも「美味しんぼ」は、「新聞やテレビを盲信せず、自分の頭で考えようよ」と提案していたのに、その「美味しんぼ」が権威と化し、「美味しんぼにそう書いてあるから」という理由で特定の食べ物をバッシングしたりネットでレストランを酷評したりする変な副作用が出てしまった。これも一種の思考停止だよね。無農薬の野菜でないとダメ、輸入食品はダメ、養殖の魚はダメ、みたいな変な決め付けが出てきてしまう。
とはいえ、80年代は冗談のように使われた化学調味料や農薬や除草剤も、21世紀の今となってはある程度相対化して見ることができるようになった。無農薬で野菜をつくるのは本当に大変だ(ちょっとやってみたけど、虫さんにはかないません!)。過度な「オーガニック」な食品希求は農業に対する強烈なエゴを生む(最近、Annals of Internal Medicineでオーガニックな食品と健康には関連がないことを示す論文がでていた)。「発がん物質」みたいな、ネーミングだけで悪者扱いにする風潮は、現在の「放射能」に対する全否定や思考停止にもつながっている。「食の安全」というキーワードで思考停止する人は本当に多い。
もやしもんでは、化学調味料も農薬も相対化し、病原体も相対化し、食中毒も相対化し、リスクの双方向性を上手に伝える。「これは正しく、あっちは間違っている」という「美味しんぼ」の切実ではあるが、平坦な(そして20世紀的な)世界観よりも少し成長している。「酒のほそ道」もそうですね。ジャンクで政治的に正しくないなB級、C級の食べ物も慈しみを持って扱われている。これが21世紀の日本の空気なんだと、僕は思う。
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