亀田総合病院の指導医講習会に行って来ました。頂いたお題は「臨床推論とその教え方、そして評価」について、である。
指導医講習会でこのようなトピックをやるのは極めて難しい。
臨床推論については6月に4年生にTBLで教えたけど、これは比較的容易なことだ。感染症(と園周辺)について、診断プロセスを検討すれば良いのだから。ふだん僕がやっていることを教えれば良いのだから。
しかし、指導医講習会は違う。指導医講習会はすでに「できあがった」各診療科の指導医に、「その科の文脈で」いかに研修医に臨床推論を教えるか、を伝えなければならないからである。
(なぜか)日本の指導医講習会はプライマリケア系のタスクが多く、「その目線」でプログラムが作られることが多い。したがって、「臨床推論」みたいなトピックになると、オーセンティックな病歴聴取、システムレビュー、身体診察、アセスメント、検査はできるだけしないでね、、、的なアプローチが「正しい」という前提がそこはかとなく、時に露骨に入ってしまう。ま、ドクターG的なノリですね。
しかし、このようなアプローチに親和性のないドクターにはこのようなプログラムは退屈だし、なにより役に立たない。放射線科医、眼科医、病理医などは、このようなプログラムを「苦行」としてイヤイヤやらされるのである。
もともと、指導医講習会は、「そういうことはもう分かってますよ」的ドクターが4割、「そういうことには興味ありませんよ、院長に言われてイヤイヤ週末潰されてんですよ」的ドクターが4割、その中間が2割の講習会である。つまり、8割の参加者には、オーセンティックな「臨床推論」レクチャーは退屈なのである。
どの科の医者もそれなりにコミットしてもらうためには、したがって、かなりの工夫を要する。これは大変なことだ。まして、僕は各専門家の「臨床推論」をよく理解しているわけではない。したがって、そのメタレベルのところで、勝負するよりほかない。というわけで、やったのは以下の様なこと。
まず、参加している医師の「臨床推論能力」は十全にある、という前提で行う。もちろん、この前提は間違っている。日本のドクターにはちゃんとした診断学を学んでいないドクターもいて、絨毯爆撃的に検査を乱用し、検査結果を誤解し、そんななかで「なんとなく」診断したことにしている医者もいるからだ(残念ながら)。しかし、80分の枠内で、初対面の人も多い中、大人の医者を相手に相手のプロとしての力量を疑うのはリスクが大きすぎる。そこはファンタジーとしても「あなたのプロとしての力量は当然十分あるに決まってますよね。そこは疑ってませんよ」というメッセージを出すのがもっとも賢明な方法なのである。もちろん、参加者の大半には、その力量は十全にある。
その前提で、まず一人ひとりのドクターに「診断にまつわるキーポイント、大切にしていることを3つだけ」書きだしてもらった。これはグループ学習にはせず、一人でやってもらう。なぜなら、プライマリケアにおける診断のポイントと、脊椎外科のそれとは異なる(たぶん)からだ。グループでやってしまうとそのような違いが尊重されず、ヘゲモニーが生じてしまうか、「各論羅列」になってしまう。
で、6人くらい、できるだけいろいろな診療科の先生にその3つのポイントを披露してもらう。わかりにくい時はさらに解説してもらう。ここで、各専門科で診断におけるポイントの多様性があることが参加者に理解できる。たとえば、さきの脊椎外科であれば、画像診断が極めて重要であることが強調される。手術の適応もここで決まることが多い。あるいは、東洋診療においては、患者の見立てそのものが治療方法に直結している。「葛根湯証」みたいなのが、それだ。
このように各専門領域の多様性が了解されると同時に、共通項も見つかっていく。たとえば、「思い込みは誤診のお友達」というパールは全科に共通するパールである。「受診理由は重要だ」も各科共通の重要事項だ。
このように、普段なにげなくやっている診断プロセスを言語化してもらう。言語化することで意識化がされる。トイレットペーパーの使い方や自転車のペダルの漕ぎ方を意識する人は少ない。できることと、言語化することは違うのだ。言語化することで、初めて教育が意識的に行われる。野球のルールは多くの日本人が知っているが、これを(野球を知らない)外国人に説明するのは極めて難事であることが分かるのだ。
中には臨床推論と無関係なirrelevantなコメントもあるが、そこは「大人の集まり」なのでうるさいことは言わない。「それはSBOではなく、GIOじゃないですか」みたいな小賢しいことをいうタスクを見ると、ぼくは張り倒したくなる。
で、次に2人組になって、お互い相手に「自分の領域の診断のポイント」を伝えてもらう。そして、「聞き手」にそれを発表してもらう。これは、臨床推論の「教え方」のプラクティスである。
発表を何度か繰り返し(全員する必要はない。時間が足りないし、似たような発表が続くので退屈だからだ)、そのあと、学生や研修医が「指導医が見ている」世界が見えていないことを伝える。それは、産科医が見ている世界を必ずしも内科医が共有していないことを体験したあと、理解納得される。そして、そのような「私と同じ世界を共有していない」学生や研修医にそれを伝え、教えることの重要性が理解される。
そして、多くの初期研修医は臨床推論ニアリーイコール診断について何も考えていない。なぜなら、研修医の多くは「上の言うことを迅速に正確に遂行すること」だけを研修と考えているからだ。そのような「上の言うことに正確に従う」研修医は優秀な研修医と誤解される。しかし、しばしばそのような「よくできる」研修医は頭の中では何も考えていない。上の言うことを遂行することしか考えていない。だから、「お前はどう思う」と聞くと何も答えられない。そういう研修医をたくさん見てきた。
したがって、研修医の臨床推論力を鍛え、そして確かめる(評価する)には、質問して確認する必要がある。「お前はどう思う」と訊き、「なぜ、そう思うのか」を訊かねばならない。このセッションでは小難しい評価の分類や評価方法についてゴチャゴチャ説明することはしなかった。しかし、研修医に問い、確認しないと「優秀」と思われた研修医が実は診断力については全く無力であることは確認できないことを指導医たちに理解してもらいたかった。そのような「よくできる」研修医はしかし、そのまま上級医になると無能な上級医になる。彼らの行動基準は「上の先生はこう言っていた」「うちの医局ではこうやっていた」になってしまう。自分で主体的に考え、判断し行動できなくなってしまうのだ。このような残念な上級医も日本では散見される。
というネタでした。初ネタおろしだったのと病み上がりだったことでなかなかうまいノリを醸造できなかったが、顕教としてのメッセージはだいたい伝わったのではないかと思う。そしていま、密教としてのメッセージ(hidden message)をここに書き留めておくのである。
追記。「良い教科書とは何か」についてもコメントした。
「良い教科書の条件」は定量的な記載があることである。「腎細胞癌では血尿が見られる」ではなく、「腎細胞癌では○%に血尿が見られる」と書いてある教科書である。あるいは「腎細胞癌の患者の大多数には血尿は認められない」と書いてある教科書である。
残念ながら、このような定量的記載のあるテキストは日本では少ない。よって、症状は典型的症状「だけ」を記載し、検査は「MRIをします、PCRをします」とだけ書いてあり(感度、特異度に言及なし)、治療も「○○をします」とだけ書いてある(治癒率どのくらい?)。
こういう教科書で勉強した学生は、「血尿がないので腎細胞癌は否定的です」とシレッと言ってしまう。「副鼻腔炎を疑ったらMRIをするそうです」と言ってしまう。「敗血症ではエンドトキシン吸着療法をやることになっているそうです」と言ってしまう。だから、まずい教科書を読むことは読まないよりもリスキーである。臨床力は「下がってしまう」。まったく勉強しないほうがましに思えるくらいに、である。
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