日本におけるポストモダンの代表作、1983年に上梓された「構造と力」。学生時代はチンプンカンプンでしたが、今読み返すととても面白いです。まあ、とはいえ、読み返した今でも僕には難しすぎてついていけない所も多々ありましたが。
なんか記憶ではチャラチャラした本というイメージでしたが、そうでもないですね。定型的で閉塞感のあった60年代、70年代の日本の価値観から自由になろうという浅田彰のまじめさが伺い知れます。「軽さ」の中にもしっかりとした強固な意志を感じ、それはニーチェへのシンパシーからも伺い知れます。受験戦争、偏差値重視、チャート式といった(今から見ると)時代のかかった言葉が連呼されるのも浅田がこのような定型的な世界観(モダンなアカデミズム社会)を軽蔑し、憎悪しながらこれらの世界観から自由になりたかった(でもなれなかった、たぶん)ことを暗示しているような気がします。時代の感性を信じ、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という浅田の態度はニーチェ的な真剣なるユーモアという意味だと思うのですが、80年代のバブリーな日本ではお気軽な現状権威全否定にしか見えなかったのかもしれません。
確かに、嫌味なくらいたくさんのオーソリティーの名前を引用し、難解な用語のじゅうたん爆撃を行い、ほとんどの人が知らない(であろう)ことを「余りにも有名である」「周知の通りである」と繰り返すのは若気の至りという気もします。自身の主張を理解してもらおうというより、「理解できねえだろ、俺の言ってること」と主張しているのですね。それに、
感性によるスタイルの選択の方が理性による主体的な決断などよりはるかに確実な場合は少なくない。その意味で、ぼくは時代の感性を信じている。(5ページ)
みたいな文章は、冷静に考えると論理的には無理があります。難解な文章でその辺の弱さがごまかされている感じもしないではありません。
浅田はスタティックな構造主義を否定し、それを乗り越えるべくダイナミックなポスト構造主義の普及を提唱します。レヴィ=ストロースたちがそういう観点から批判されるのですが、構造主義そのものがダイナミズムを否定しているかというと、僕はそうは感じていません。まあ、ここは浅田の言う「狭義の構造主義」が何をさすのか、による(定義の問題)ので、水掛け論かもしれませんが。また、「構造主義が明らかにした<構造>が物理的世界や生物的世界において見出されてきたシステムとは違う」(42ページ)とありますが、実際には物理学においても生物学においても構造主義はアプライ可能で、そこでも差異の共時的体系としての象徴秩序、例えば言語(112ページ)であることには変わりありません(池田清彦「構造主義科学論の冒険」参照)。これもまあ、「俺の定義する所の構造主義」的、水掛け論でしょうか。
バブルもはじけ、311以降右肩上がりの社会に対する幻想も(ほぼ)断ち切れてしまった現在、ゲマインシャフトからゲゼルシャフト、プレモダンからモダン、ポストモダンといった線形の変遷はあまり現実味を帯びなくなってきたように思います(むしろゲマインシャフトへの回帰すら感じられます)。構造主義を乗り越えて、ポスト構造主義という浅田の主張は、今の眼から見るとあまり実感を持てませんが、右肩上がり絶頂期の80年代にはとてもフィットしていたと思います。そして、本書が時代にフィットしにくくなり、小気味よい文章にもドライブされなくなったであろう現在でこそ、難解な表現に振り回されずに本書を丁寧に読み直し、浅田がなぜ「力」という言葉をタイトルに入れたのか、クールに振り返ることができると思います。
なんか記憶ではチャラチャラした本というイメージでしたが、そうでもないですね。定型的で閉塞感のあった60年代、70年代の日本の価値観から自由になろうという浅田彰のまじめさが伺い知れます。「軽さ」の中にもしっかりとした強固な意志を感じ、それはニーチェへのシンパシーからも伺い知れます。受験戦争、偏差値重視、チャート式といった(今から見ると)時代のかかった言葉が連呼されるのも浅田がこのような定型的な世界観(モダンなアカデミズム社会)を軽蔑し、憎悪しながらこれらの世界観から自由になりたかった(でもなれなかった、たぶん)ことを暗示しているような気がします。時代の感性を信じ、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という浅田の態度はニーチェ的な真剣なるユーモアという意味だと思うのですが、80年代のバブリーな日本ではお気軽な現状権威全否定にしか見えなかったのかもしれません。
確かに、嫌味なくらいたくさんのオーソリティーの名前を引用し、難解な用語のじゅうたん爆撃を行い、ほとんどの人が知らない(であろう)ことを「余りにも有名である」「周知の通りである」と繰り返すのは若気の至りという気もします。自身の主張を理解してもらおうというより、「理解できねえだろ、俺の言ってること」と主張しているのですね。それに、
感性によるスタイルの選択の方が理性による主体的な決断などよりはるかに確実な場合は少なくない。その意味で、ぼくは時代の感性を信じている。(5ページ)
みたいな文章は、冷静に考えると論理的には無理があります。難解な文章でその辺の弱さがごまかされている感じもしないではありません。
浅田はスタティックな構造主義を否定し、それを乗り越えるべくダイナミックなポスト構造主義の普及を提唱します。レヴィ=ストロースたちがそういう観点から批判されるのですが、構造主義そのものがダイナミズムを否定しているかというと、僕はそうは感じていません。まあ、ここは浅田の言う「狭義の構造主義」が何をさすのか、による(定義の問題)ので、水掛け論かもしれませんが。また、「構造主義が明らかにした<構造>が物理的世界や生物的世界において見出されてきたシステムとは違う」(42ページ)とありますが、実際には物理学においても生物学においても構造主義はアプライ可能で、そこでも差異の共時的体系としての象徴秩序、例えば言語(112ページ)であることには変わりありません(池田清彦「構造主義科学論の冒険」参照)。これもまあ、「俺の定義する所の構造主義」的、水掛け論でしょうか。
バブルもはじけ、311以降右肩上がりの社会に対する幻想も(ほぼ)断ち切れてしまった現在、ゲマインシャフトからゲゼルシャフト、プレモダンからモダン、ポストモダンといった線形の変遷はあまり現実味を帯びなくなってきたように思います(むしろゲマインシャフトへの回帰すら感じられます)。構造主義を乗り越えて、ポスト構造主義という浅田の主張は、今の眼から見るとあまり実感を持てませんが、右肩上がり絶頂期の80年代にはとてもフィットしていたと思います。そして、本書が時代にフィットしにくくなり、小気味よい文章にもドライブされなくなったであろう現在でこそ、難解な表現に振り回されずに本書を丁寧に読み直し、浅田がなぜ「力」という言葉をタイトルに入れたのか、クールに振り返ることができると思います。
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