最近、「東大話法」という言葉があることを知りました。
Wikipediaによると、 東大の学生・教員・卒業生たちが往々にして使う「欺瞞的で傍観者的」な話法のこと。東大教授の安冨歩が、著書『原発危機と「東大話法」』(2012年1月出版)で提唱した。
だそうです。
で、その詳細はというと、
• 規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
• 規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
• 規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
• 規則4 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
• 規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
• 規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
• 規則7 その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
• 規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
• 規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
• 規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
• 規則11 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
• 規則12 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
• 規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
• 規則14 羊頭狗肉。
• 規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
• 規則16 わけのわからない理屈を使って、相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
• 規則17 ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
• 規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
• 規則19 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
• 規則20 「もし○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。
という20の規則で成り立っているといいます。
ぼくは東大生や東大卒の人をそんなにたくさん知っているわけではありません。たしかに、「昔の」東大生、1990年代の東大生はこういう傾向があったような記憶がないでもありません。でも、少なくとも今ぼくが知っている東大関係者で、こんな露骨な人たちはあまり見たことないですねえ。というか、このような「東大話法」的な分類そのものが、「規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める」だと思うのですが。
ただし、ここで問題にしたいのは、「東大話法」なるものの是非、あるいは妥当性ではありません。そうではなく、ぼくは「東大話法」なんていうレッテル貼りは(その妥当性とは無関係に)止めておいたほうがよいと言いたいのです。
「それは東大話法だ」というレッテル貼りを行えば、その人物の言説は(その言説の内容とは無関係に)自動的に貶められます。話の内容ではなく、レッテルが貶めるのです。しかも、常に同じパターンで貶めることが可能です。
東大話法であろうとなかろうと、大事なのは言説の中身です。レッテル貼りは安易で便利な相手を貶めるツールですが、その内容吟味を放棄してしまう点でとても問題なのです。同じように、「御用学者」とか「原発擁護派」「反原発派」などといった、言論の内容ではなく「立場」にネーミングをするレッテル貼りもやめたほうがよいです。その言葉の妥当性(妥当な場合も、そうでない場合もあると思いますが)とは無関係に使わないほうがよいタームです。
ぼくらが大切にすべきは相手を貶め、議論に打ち勝つ(あるいは主観的に勝利の感覚を味わう)ことではありません。大事なのは、議論の末に妥当な解を見つけ出すこと、あるいはその解に近づくことです。「東大話法」なんて物言いをした瞬間、その解は遠くに過ぎ去っていきます。相手が「東大話法」的な人かどうかとはまったく無関係にそうです。
物事は各論的に議論しなければなりません。
「お前は東大話法を使うヤツだ」 といわず、
「今のは、訳の分からない理屈で私を煙に巻こうとしていますよ」
と指摘すればよいだけの話なのです。
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