ぼくはいつも「遅れてくる」人なので、今さらながら丸山真男の「日本の思想」を読んでいる。とても面白い。小林秀雄の論考に対する言及がある所など、ほおっと思った。同時代の人なのだから当たり前なのだけど、僕の中では小林と丸山って別物でつながっていなかったからだ。このような思い込みってけっこう多いですよね。
「むしろちがったカルチュアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異るものと措定してこれに対面するという心構えの稀薄さ、その意味でのもの分りのよさから生まれる安易な接合の「伝統」が、かえって何ものをも伝統化しないという点が大事なのである。とくに明治以後ドンランな知的好奇心と頭の回転のす早さーーそれはたしかに世界第一級であり、日本の急速な「躍進」の一つの鍵でもあったがーーで外国文化を吸収して来た「伝統」によって、現代の知識層には、少くも思想にかんする限り、「知られざるもの」への感覚がほとんどなくなったように見える。最初は好奇心を示しても、すぐ「あああれか」ということになってしまう。過敏症と不感症が逆説的に結合するのである。たとえば西欧やアメリカの知的世界で、今日でも民主主義の基本理念とか、民主主義の基礎づけとかほとんど何百年以来のテーマが繰りかえし「問わ」れ、真っ正面から論議されている状況は、戦後数年で「民主主義」が「もう分ってるよ」という雰囲気であしらわれる日本と、驚くべき対称をなしている」
医学の世界でもこれは同じで、エキスパートがプレマチュアなデータで「もう分ってる」「もう決まっている」とあっさりと片づける傾向を今でもよく見かける。医学教育とかでもいまアメリカではこうなっている、ヨーロッパはこうだとあっさり何の葛藤もなく輸入するか、逆に「ここは日本だ」と全否定するかのどちらかが多い。過敏症と不感症との結合だ。
最近、インフルエンザに対するタミフルが死亡率などを減らすデータは不足している、という発表がなされたが、それはもう10年以上前からそう言われてきたことの確認である。決して驚きではない。そこに検査がある、薬があるという理由で無批判に運用するような文化がそれを驚きと見なすのである。
放射能の健康が与える影響も、もっと熟慮が必要な難しい難問なのにあっさりと「その議論は片づいている」とし、「お前はどっち派なのだ」と党派性を要求する。本当に今必要なのはディアレクティークであり、それは弁証法と訳すそれでもあり、対話と訳すそれでもある。
あっさり、の感覚は、政治家に対する過度な即効的対策と、それに対する絶望、医療に対する即効的な対応への要求とそれに対する絶望、教育の、、以下同文、、にも現れている。断言できないことに断言する牽強付会な輩にすぐに阿るし、そして過度な期待が失望に変わるとあっさり失脚させる。
あっさり、さっぱりしすぎである。もっとうじうじ、ねちねち考えようよ。
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