内田樹先生の新作。久しぶりの単著である。内容は「いつもの話」なのだが、実に面白かった。
「はじめの一歩」は長年のお気に入りマンガなのだが(ほんとうに長年、というのにふさわしい長さですが)、ぼくのベストバウトは10年以上、「鷹村守vsブライアン・ホーク」である。もともと、矛盾に満ちたキャラの鷹村が好きなんですね。
本書は内田先生の放談を文字おこしし、ゲラに手を入れた本である。このような「談話」的本は新潮社の得意とする所だ。作りが作りなだけにこういう本を嫌う人もいるけど、本はプロダクツがナンボである。たくさんの労力を費やしたらよい本ができるとは限らず、芭蕉の五七五のようにすっと作っても何百年も残る名句・名文もある(もっとも、その一句ができるにいたるまでの過程でたくさんの努力があるのだろうけど、それは「定量化」できないから勘案されないのである)。鷹村守が型にはまらないフリーのボクシングスタイルで強烈に強いのと同様、内田先生もフリートークでそのよさが浮き出てくるようにぼくは思う。講演よりも、対談、対談よりも宴会トークの方が面白い印象がある。ただ、そのロジックはとても精緻で、おそらくはゲラに筆を入れる際に、その躍動感あふれる言葉に、精緻なロジックを織り込んでいくのだと推測する。
とにかく、相変わらず納得納得の本である。ちょっとだけ抜粋。
ですから、「私だけが「正解」を語っている」という主張をなすことは、それ自体が原理的に間違っている。そう主張する人は、彼の「正解」に背馳するデータを過小評価するか無視するか悪意ある捏造だとみなすようになる。必ずそうなります。そうやって、知的な「遮眼帯」を自分で自分に装着してしまう。人間である以上しかたがない。それは「私だけが正解を語っている」という言明を始めたことの論理的な帰結なのです。だったら、そういうピットフォールに落ち込まないように、自説の正しさに常に留保をつけておく節度が必要だと僕は思います。「私はとりあえず手持ちのデータに基づいて、正しいことが事後的に明らかになる蓋然性が高い見通し」を述べている。しあし、私はすべてのデータを網羅したわけではなく、これから起きる出来事のすべてを予見できるはずもないので、私の見通しは誤る可能性がある」という宣言を議論の出発点に置くべきなのです。そのときにはじめて「私が吟味しなかったデータを吟味した人」、「私が予測しなかった出来事を予測した人」との生産的な対話が成立する。
シンプルなステートメントですが、この内容の話をほとんど毎日回診でやっている。このステートメントがアプライできる話題に、ほぼ毎日遭遇する。自分の間違っている可能性を伴う節度がいかに得難い産物であるか、ということであろう。
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