くどくて申し訳ないけど、クロスライセンスについてもう少し。
もしかしたら誤解があるかもしれないけれど、アメリカは強固なクロスライセンス制度をもっているわけではない。アメリカの学生同様、USMLEを合格しなければならないし、わざわざ渡米してCSAを受ける必要もある。ぼくがアメリカに行ったときはCSAは必要なかったので、昔より今の方がハードルは高くなっている(とくに金銭的に不利な途上国の医師にはきついはずだ)。今後はECFMGの基準も厳しくなるようで、もしかしたら日本からの臨床留学は不可能になるかも、とすら言われている。州によっても異なるが、外国人はライセンスを取得するのは難しいし、ビザによっては一時帰国や僻地でのウェイバーも必要だ。医師に限って言うと、アメリカは決して外国人に優しい国ではない。
中国は医師免許が地域ごとに分かれていて、ぼくが北京にいたときは、英語・中国語併記のマークシート試験と英語による面接(ケースディスカッション)で受かれば医師免許が与えられた。試験の合格率はそんなに高くなかったので決して簡単な経路ではなかったけれども、手続きそのものはシンプルだったし、なにしろ中国語ペラペラでなくても免許が取れたのはよかった。
もちろん、ぼくは在中外国人を対象に診療していた。中国語はしゃべれないのでコンサルトされた難しい症例以外は(そのときは通訳つき)中国人は診ない。基本、医療とは自分の能力に見合っただけの診療スタイルしかできないものだ。おかみが一律に規制しなくても、現場は自然に適切な場所に適切な人間を配置する。また、それができない現場なら現場としての能力が足りていない。
例えば、日本にだって日本語が苦手な人はたくさん住んでいる。医師会会長が言うように医療においてコミュニケーションは極めて重要だ。だから、ブラジル人の患者にポルトガル語ペラペラなドクターやナースがいたらずいぶん重宝するだろう。こないだブラジル行った帰りに飛行機で病人を見たが、どちらも英語はネイティブではないのでやはり微妙なニュアンスは伝えにくい。
もちろん、在日ブラジル人は日本においてマイナーな存在である。しかし、マイノリティーの存在に配慮すること、想像力を働かせることこそが、医療者の医療者たる所以ではないだろうか。アメリカ旅行中にけがや病気をしたとき、病院で日本語が通じるとほっとするでしょ。今でもボランティア団体に助けてもらって外国人診療に通訳を入れることがあるけど、医療者ではないからそのコミュニケーションはとても難しくなる。
それに、ここ数十年で外国人の日本語はとてもうまくなった。むかしは外国人は日本に住んでいても日本語しゃべれないのが「あたりまえ」だったのに。コンビニなんか行っても普通に外国人が勤務している。将来はもっと日本語が上手な外国人は増えるだろう。
日本語能力は大事だが、どこまでのレベルを要求するのか?いじめ的なレベルは要求すべきではないと思うし、テクニカルタームは英語でお互いなんとかなることが多いはずだ。日本人でも読めないような皮膚科の疾患名なんて書いたり読んだりできなくても、現場はなんとか適応できるはずだ。
今は視覚異常があっても医師免許は取れる。その医師は例えば脳外科のマイクロサージャリーとかはできないかもしれない。でも、自分の能力を活かし、それに見合った医療は十分に行えるはずだ。子育てや介護が必要で当直できない医師もいれば、持病があって長時間勤務できない医師もいるだろう。吃音や難聴がある医師もいるが、勤務形態を工夫したり、周りが支援することで十分に医師としてファンクションすることはできる。同様の発想がなぜ外国人に対して示せないのだろう。文化や言語も単なるハンディキャップの一つにすぎない。ハンディキャップを補填できるような勤務形態をぼくらが見いだしてあげればよいだけの話である。
ときに、ぼくはクロスライセンスを推奨しているが、医療の「スタンダード化」を主張しているわけではない。むしろ、逆である。このことは他の場所でも言ったり書いたりしているが、誤解のないよう確認しておく。
今週、聖路加の岸本先生が大リーガーとして神戸大学に滞在している。昨日は一緒に症例カンファレンスをしてもらった。炎症性疾患とおぼしき3例(たぶん感染症じゃない)を提示したのだが、驚いた。知識の広さ、深さが段違いでぼくら自己免疫疾患のアマチュアの遠く及ぶところではない。プロとはかくも遠く大きな存在であったのか、とあらためて認識させられた。
こういう「他者」との対話はとても重要だ。自分たちだけでいるとどうしても独りよがりになる。知識も偏り、理解も偏り、偏屈になっていく。自分の専門外にいる「他者」との対話を通じて自分が相対化され、謙虚さを促し、そしてさらなる勉強の意欲を生む。
話はずれていくけど、日本の学術集会がどうして詰まらないかというと、同質的な人たちしか集めないからだ。だから毎年同じような人が同じようなことをしゃべるマスターベーション的な自己満足に陥ってしまう。マスターベーションよりセックスの方が良いに決まっている。どうして他者を迎え入れないのだろう。
先日、IDSAに行ってきた。アメリカの学会だが外国人の発表はもちろん可能だし、IDSAの会員である必要はない。ぼくは感染症学会や(旧)家庭医療学会に「学会員以外でも発表をさせるべきだ」と主張してきたが、残念ながら両学会とも狭量にこのアイディアは拒み続けた。せっかくの研究の成果も学会員に(その年だけ)なるか、研究者の名から外すということをするか。実に了見が狭いものだとぼくは嘆いたものだ。他者を迎え入れれば、より面白い学会になるに決まっているのに。
閑話休題
ぼくは世界中のいろいろな国籍の医師と一緒に仕事をしてきた。各国各人多様性があり、そのことが診療を豊かにしてきたと思う。イギリス人医師やインド人医師の身体診察の丁寧さ、ドイツ人医師の検査オーダーのマニアックさ、南アフリカ人医師の手技のうまさ、ペルー人医師のカルテの丁寧さ、、もちろん、それは小さなサンプルなのでその国籍に一般化は必ずしもできないのだけど、多くの国籍の人と医療をやるのは快楽である。もちろん、各国特有の欠点もたくさん観察できる。○○人はペケペケで、、、、とう文句もたくさん言ってきた。それもしかし、学びのリソースである。
外国人流入を「医療の質を下げる」と同義にしている医師会の人がいるけど、本当に外国人医療者のプラクティスを見ていってるのだろうか?マイケル・ムーアの映画だけが資料ではあるまいが。森達也氏が指摘するように、ドキュメンタリーは「作品」であり、「事実」ではない。ムーアの映画は面白いけれど、あれが事実の全てではなく、あれはムーアの視点である。
医学教育や研修を画一化してしまうと、このようなバリエーション、学びが無くなってしまう。いろいろあるからよいのである。いろいろあるから交流の価値があるのである。昔の大学病院、医局人事の最大の問題点(の一つ)は同じ価値観の空間しか持てないことにある。ある教室、あるいは教授の方針だけが大学医局と関連病院をぐるぐる回り、他者の言葉はそこに入る余地はない。だから、だんだん狭量になっていく。
オリジナルなことがいけないのではない。他者の言葉を聞きつつ、そのうえでオリジナルであることが大切なのである。「教科書やガイドラインにはこうなっているけど、ここはこういう事情を勘案して、別のこと」というのが臨床的なのである。「教科書やガイドラインは読んだことないけど、うちの医局は昔からこうなってる」ではだめなのだ。
そして、言葉は他者にもたらされればよいのだ。グローバリゼーションとはアメリカ・欧米の模倣ではない。そこは情報発信の場でもある。「世界標準の手術はこうなってますけど、うちのオペの方がよりよいでしょ」と自信を持って開陳すればよいのである。そこから、さらなる医学の進歩が生まれてくる。
야노 하루미
ってだれだかご存知だろうか。矢野晴美先生である。先生の著書は韓国語に訳されて、外国の医師教育に寄与している。独りよがりになることなく、日本人のプライドを持って、こういう仕事をもっともっとすべきなのである。日本発の医学教材がアメリカとかヨーロッパで読まれたら、それはとても素敵なことだとぼくは思う(自著の翻訳出版歓迎してます。だれかお声がけください!)。
だから、ぼくは今アメリカとかで進められている医学教育の統一化の流れを好まない。そもそもアメリカだって講義中心のとこ、PBL主体のとこ、両者併存と学校ごとにいろいろやり方が異なる。現場のことは現場レベルで工夫するのがよく、文科省みたいな「単一者」が机の上でこね繰り回すとろくなものができない。フィンランドの子どもの授業も先生が一人一人工夫して作っている。PISAのスコアよりもその主体性のほうがずっと重要である。神戸大学4年生の教育は昨年まではPBL一辺倒だったが、「現場にあわない」というクレームが多く、学生にも評判が悪かったので各科に任せることにした。講義形式をとる科もあり、PBLを続ける科もあり、うちみたいにTBLをやった科もあった。どちらがよいという問題ではない。ジャズとクラシックどちらがよい音楽か、みたいな議論と同じで「意味がない」。自分と学生にフィットするやり方が一番よいのである。いろいろあるのが、一番よいのである。
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