科学技術に関する国際フォーラム(STS)開催に伴い、EUとNature Cafeなどの協力で「緊急時におけるリスクコミュニケーション」という意見交換会が開催された。政治と科学、科学とメディア、そしてメディアと政治がどのように緊急時のコミュニケーションをとっていくか、各界の代表が集って議論がなされた。
議論がなされた、、、、ということは、欧州各国においても日本においても政治と科学とメディアのコミュニケーションが「うまくいっていない」ことを意味している。円滑良好なコミュニケーションが成就されているのであればこのような催しそのものの存在理由がなくなるからだ。
イギリスのvCJD、ドイツの大腸菌、アイスランドの噴火、SARSやパンデミック・インフルエンザ、そして東日本の震災と、我々は科学技術が政治的に応用される事例、緊急事例をたくさん経験している。しかし、その際に科学は政治やメディアに恨みを持ち、政治は科学とメディアを恨みに重い、メディアは、、、以下同文、、、ということになる。なぜか?
もちろん、同じ情報を扱う場合でも、政治とメディアと科学ではその目的が異なる、、、という意識の差もあろう。でも、それだけではないような気がする。
毎日新聞の足立旬子さんが残したコメントが印象的だった。speediの情報が公開されなかったが、そこには深い事情があり、データを処理し、報告する際のプロセスの中で公開がうまくなされなかったというのである。
ぼくは、そこをメディアが語るべきだと思う。メディアの語り口にもパラダイムシフトが必要だ。
speediの情報が公開されなかったのは問題である。当然だ。しかし、そこで文科省はけしからん、と糾弾口調になり、問答無用の状況を生じさせてきた「糾弾の語り口」をぼくは残念に思っている。冷静になって考えてみたい。たとえば、医療の現場でこれをやって、医療現場が果たしてよくなるだろうか?そうでないから、ぼくらはノーブレームのインシデントレポートを奨励しているのである。行政においてなぜ同じ原則がアプライできないのだろう。
メディアは、分かっていることを分かりやすく明快に語るのを専らとしてきた。これからは、分からないことを、口ごもりながら語るという語り口も必要なのである。
緊急時にはとかく陰謀論が蔓延るものだが、総じて日本の政治家も官僚も良心的で優秀である。情報を文科省が隠蔽して文科省官僚達が「個人的な利得」を得てウハウハ言っている、、、というストーリーよりは、構造的な情報公開のシステムの不備がそれをもたらしたと考える方が理にかなっている。そして、そのシステムの不調を明らかにし、改善するためには、「文科省けしからん」の糾弾口調よりももっと効率的で効果的な方法があるはずだ。それが「口調」である。
政治をサポートする科学者の独立した支援システムが必要である、日本学術会議がその要務を果たせていなかったという議論があった。どこかで聞いた議論だ。そう、2009年のパンデミックのときも、ぼくらは全く同じ議論をしたはずだ。いわく、日本にはCDCやACIPに相当する機関がない。マルチディシプリナリーでインデペンデントな科学的オピニオンをまとめ、政治に反映させるような。科学的ステートメントを枝野さんが行い、speediの情報管理を文科省が担当し、どこからが専門家の見解でどこからが素人の意見なのかが判然としていない。だから、非難や糾弾の温床ができるし、陰謀論がでてくるし、「御用学者」というよくわからない単語が乱用されるのである。
そのためには、科学のもとに生きるものが、自分の名前と責任のもとで、科学的政治的ステートメントを行い、責任を取るガッツを持たねばならないことも意味している。外野から野次を飛ばしているだけではだめなのである。
メディアと科学と政治の歩み寄る旅程ははっきりしている。各プレイヤーがそれに乗る覚悟を決めることができるだろうか?
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