ぼくは優劣を語ることがあまり好きではない。もちろん「あまり」であり、まったくないとは言わないけど。
比較はする。例えば、アメフトはサッカーに比べると陣地取りの要素が強いな、とか。でも、優劣は関係ない。アメフトもサッカーもどちらも面白いスポーツで、そこには優劣はない。ぼくはサッカーファンだからサッカーの方をたくさんみるけど、アメリカに行ったときはテレビでアメフトをみる。とても面白いスポーツだと思う。だいたいぼくは、スポーツ全般皆好きで、野球とかラグビーとか、ボクシングとか、クリケットとかスヌーカーとか(ルールがよく分からんけど)皆それぞれに面白いと思う。
でも、多くの人は「優劣」でものを語ろうとする。最近は減ったが、野球ファンはサッカーをけなし、サッカーファンは野球をけなすような「優劣の文脈」で語る議論があった。どっちも面白いと思うけど、、、違うだけで。
10年くらい前からか?あるいは5年か?とにかくぼくは優劣の文脈でものを考えることがあまり得意ではないし、好きでもなくなった。優劣の文脈は「他者の視線」である。他者の視線から自由になることによって、かつてよりずっと自由に生きることができるようになったし、時間も上手に使えるようになった。
もちろん、「他者の言葉」は大切にせねばならない。例えば、感染症診療のクオリティーは(少なくともその一部は)他者からの言葉、フィードバックが担保している。しかし、それは「他者の視線」をぼくが受け止めること、他者との比較ではない。外科医に比べると感染症医はどうとか、他の内科に比べるとどうとか、そういうことは一切関係ない。
それは、換言すれば、嫉妬心とも表現できる。そこからフリーになれば、時間的にも空間的にも精神的にも、かなりのスペースができる。
というのが、拙著「1秒もムダに生きない」の主題の一つであった。ところが、ある年配とおぼしき方から、「あんなことは、僕らの年齢になれば誰にだって分かるよ、まっ、若い人には参考になるかもね」みたいなあざけりの批評を受けたことがある。
嘘である。嘘でないとしたら、単なる勘違いだ。
ま、その人がどうかは知らないけれど、少なくとも「誰にでも」は嘘である。なぜなら、少なくともぼくより年配の人は一般に「他者の視線」だけをよりどころに生きてきた人が多いからだ。出身大学とか、卒後何年目とか、あなたは何科だとか、あなたの職名はとか、インパクトファクターだとか、、、、そういう平坦な、可視化しやすい情報だけをゲットし、他者と比較し、ときに優越感に浸り、ときに嫉妬心に狂うという営為のみに時間を費やし、それをエネルギーにして生きてきた人のなんと多いことか。
そうそう、卒後何年目という表現を聞くのは僕の知る限り日本だけだ。
「他者の視線」をよりどころに生きる生き方は今でも健在である。だから、簡単に比較できるアイテムで人事考査をやろうとする。簡単に比較できない絶対的、実存的アイテムは相手にしない。研究成果は論文という可視化されたアイテムや、もっと平坦に可視化されたインパクトファクターで表現できる。臨床能力や教育能力は可視化、数値化できないところにその真価がある。それはしかも容易に他者と比較しようがない。しようがないから「卒後何年」とか「なんとか指導医をもっている」というどうでもいい指標だけが頼りになる。
「それ」はないのではない。言語化、数値化、アイテム化、比較可能化が困難な(ときに不可能な)だけだ。それは存在する。しかし、多くの人はそれを「なかったこと」にしてしまう。医療機能評価なんかまさにその代表だ。
他者の視線からフリーになった自由な「おじさん」たちも少なくない。が、彼らは少なくとも日本における主流ではなく、むしろ異端である。「変わったおじさん」たちである。
まあもちろん、ぼくも「他者の視線」から完全に自由になったわけではない。「優劣」の文脈にとらわれている自分に気がついて恥ずかしい思いをすることもある。だから、もっともっと精進してこのような文脈から自由になりたいといつも思っている。
他者の視線から自由になるとは「主体的に生きる」とも換言できる。いかに主体性を獲得するか、そして「獲得させるか」が僕の目下のテーマである。むずかしいな。
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