女子ワールドカップの決勝戦の地、フランクフルトでPaul Ehrlichと秦佐八郎が
共に開発した抗菌薬“Salvarsan®”について
ノーベル賞にも輝き、“magic bullet”というコンセプトのもと抗菌薬の開発に専念していたEhrlichに、梅毒の原因菌(Treponema pallidum)を突き止めたErich Hoffmannは、Spirochetesとtrypanosomesとの類似性から、砒素を含んだ化合物による梅毒治療法の開発を薦めた。その当時、日本からの学生である秦佐八郎はうさぎに梅毒を感染させることに成功しており、Ehrlichは彼にすべての砒素を含んだ合成物質を再評価させた。606番目の化合物で、秦佐八郎は砒素を含んだ物質が梅毒に対して有効であることを発見した。Ehrlichはとうとう、長年捜し求めていた、“magic bullet”を発見することとなった。これが、arsphenamine(Salvarsan®)である。砒素を約30%含有していて、臓器親和性に乏しく、寄生虫親和性に長けていた。用いる際に、過敏症に対して十分に注意を払わねばならなかったが、動物実験で安全性と有効性が確認され、サンプルがMagdeburg Hospitalや他の施設にも送られ、第一期の梅毒患者を対象とした大規模臨床試験が行われた。1910年4月19日、ヴィースバーデンで行われた国際会議の場で、Ehrlichと秦はarsphenamineの発見と臨床試験の結果を報告し、さらに65000のサンプルが集まり、更なる臨床試験が行われることとなった。これは初めて梅毒に対して効能をもつ薬であっただけでなく、Ehrlichが国際的にも認められることとなった。科学雑誌だけでなく、新聞の見出しも賑わせ、1940年にはWarner Brother StudiosがDr. Ehrlich's Magic Bulletと題した映画まで製作した。
しかし、arsphenamineを用いた治療は長期かつ不快なもので、薬の副作用はすぐに現れ、Ehrlichに対する批判も飛び交った。ロシア正教もarsphenamineには反対の姿勢を示していた。性病は不道徳に対する神の神聖な罰であるため、治療すべきでないという信念からであった。さらに製剤としてのarsphenamineについての問題も上がった。Arsphenamineは投与前に希釈が必要だが、水に不溶性であり、塩酸塩では毒性が強すぎ医療用としては不向きであった。そのため、水に可溶な誘導体の誕生が必要であった。1914年、914番目の化合物がNeosalvarsan®として発見された。binding arsphenamine to sodium bisulphite aldehydeによって強化され、治療期間も短縮されることとなった。ヒ素の含有量も19%となり、毒性も減ったが、吐き気や嘔吐といった副作用と無縁ではなかった。第一次大戦中、アメリカではarsphenamineの特許が停止され様々なラボでこのような、梅毒治療薬の開発が進められた。1930年にはarsphenamineが酸化されたoxophenarsineがMapharsen®として発見された。事実この代謝産物には活性があり、その安定性から1940年にペニシリンが発見されるまで梅毒の治療薬として用いられていた。しかし、この薬物はすでにEhrlichのラボで合成済みであり、599番目にその記載がある。Ehrlichはその高い毒性から候補に取り上ることはなかったと考えられる。
The contributions of Paul Ehrlich to pharmacology: a tribute on the occasion of the centenary of his Nobel Prize. Bosch F, Rosich L. Pharmacology. 2008;82(3):171-9. Epub 2008 Aug 5. Review
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