週末のシンポジウムで鷲田先生が引用された言葉。ヒッピー時代の言葉だが、さすが鷲田先生で、本質的な問題の「底」を言い当てておられると思う。
今の政治家とか官僚、産業界、マスメディアの意思決定者=お偉いさんは、右肩上がりの時代を信じていくことができた「昭和の」人達である。その実感が染みついており、習性になっており、それ以外の世界観を頭では認識できても、魂に落とし込むことができない(鷲田先生たちごく一部の例外を除けば)。これだけ世の中が「右肩上がり」の世界観から離れていき、地震と津波と原発事故でその幻想に引導を渡されても、まだ「右肩上がりの」世界観で問題を議論しようとする。だから、この期に及んでまだ、村上春樹的に言えば「効率」、内田樹先生的に言えば「カネ」を主軸にしないと話ができない。
効率やカネが要らないといっているのではない。それ「だけ」が価値の主軸で、人命や安全と平気でトレードオフにしてしまおうという根性が問題なのである。ポリオワクチンだって、10年前に不活化にするチャンスはあったのである。しかし、「カネ」の都合でほったらかしになった。全ては「昭和の世界観」から脱却できない、内田さん的に言えば「構造的に見落としている」世界観がもたらしているものである。
原発は、いくらテクニカルに安全性を上塗りしても、その安全であるという担保が「安全に違いない」という世界観から脱却できないメンバーによるシステムであれば、これからも事故は起き続ける。それは、物理学とか建築学というテクニカルな問題ではなく、昭和の世界観が構造的に見落とし続ける構造のためにそうである。無謬であり、安全であるというスローガンが、実は一番危険なスローガンであることは、「無謬」とか「安全」という言葉の重みと幻想性に熟知している、僕ら医療者がよく理解するところである。無謬を声高に主張する人ほど信用できないものはない。
彼ら(政治家、官僚、産業界、ジャーナリストの「昭和の世界観にどっぷり浸かった人々」)は内部事情に通じている。しかし、その世界観は人間関係、党派性、派閥性の世界観、右肩上がりの世界観、昭和の価値観で構成されている。だから、「だれだれと仲が良い」とか「どこのポストは出世を約束されている」と「この話はだれに根回ししなければ」というインサイダー情報の多寡だけが価値になっている。インサイダー情報に意味がないとは言わないが、それだけが価値というのが問題なのである。そして、そのような平坦な世界観が自主規制、上滑りする言葉の遠因ともなっている。
鷲田先生は、そのような「右肩上がりの世界観」が骨の髄まで染みついている人達に、そろそろご退場願った方がよいのではとおっしゃる。サーティというのはもちろん便宜上の言葉である。僕も同感である。
こないだ、内閣不信任案が提出されたときのごたごたを見ていて、僕の率直な感想は、「こいつら、何やってんだ?」であった。危機的な状況においては優れたリーダーシップを示せると(インフルの時は)思った舛添さんまでインサイダーの価値観で内紛に夢中になっていた。舛添さん、がっかりだぜ。
今は緊急時だから、たとえあのような馬鹿騒ぎを見せられたとしても、多くの国民は、ここはぐっと我慢だと思っている。でも、こんなことばっかりやっていたら、しかるべきときが来たら(次の選挙?)、仁侠映画の高倉健みたいにばばんと怒りを表出させるときが来るかもしれない。与党も野党も、「右肩上がりの世界観」にどっぷり浸かっている人達は、そのとき一斉にご退場いただいた方がよいのかもしれない。
そして、右肩上がりの世界観からフリーになった、「そうでない世界の可能性も念頭における」人達だけが、未曾有の災害で現行の価値観を全てひっくり返されているこの日本で、それなりに生き延びていく人なのではないかと僕は思う。
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