原発について考え続けている。本書は主に2008年にまとめられ、2009年に出版された本である。
原発建設予定地の土地購入問題や活断層の評価をめぐる裁判など、議論があっちにいったりこっちにいったりするところがあり、高村薫や石原都知事のインタビューも混じり、まさに「新聞のスクラップブック」みたいな本で読みづらい。が、そのことはマイナーな問題である。
2008年の段階で原発は大きなジレンマだった。特に地方にとっては原発がある不安となくなる不安に悩まされていた。東京都など都市部は増大する電力需要と、安全面は地方任せというジレンマを抱えていた。今この本を読むと石原知事がなぜ「天罰」と呼んだのかようやく理解ができるような気がする(必ずしも賛意は示せないけど)。新潟や福島の人たちの安全不安のうえに、東京都の人たちは安全で快適な「電気のある生活」を甘受していた。そのことを見て見ぬふりをしていた。このことを石原は苦々しく思っていたようだ。それは、そうであろう。
さて、2011年の今である。中越沖地震では、緊急停止した柏崎刈羽原発を「安全」と呼ぶか否か(運転再開可能かどうか)が議論の焦点であり、住民、関係者の悩みであった。今、このような筋立てで議論を行うのはもちろん不可能だ。もはや原発が「安全上問題なし」と主張する人はさすがにいないだろう。火力発電が「安全」というわけではない。事実、化石燃料は今回の地震でも大きな火災を起した(コスモ石油)。しかし、地震の後の化石燃料の燃焼は一時的な被害で済む。原発がもたらす被害とのconsequenceの差は大きすぎる。「原発は実害を起こしていない、津波のほうがずっとひどい」と主張していた人も、原発のもつ時間的な問題に次第にトーンダウンした。しかし、原発のジレンマの構造そのものが消えてなくなったわけではない。その構造は2008年のときと同じである。
2008年にはまだ民主党政権はなかった。このようなジレンマとしがらみが政策を決めていくのであれば、誰が政権を担当しても同じような判断しかできなくなる可能性がある。そのことは、すでに沖縄の基地問題で露呈している。
大切なのはまなざしである。僕らが向けるまなざしは、自分たちの子どもや孫の世代がどういう生き方をするかというまなざしである。今のそれではない。今後100年、原発は地震や津波を無難に乗り越えることができるような「安全な代物」だろうか。僕には懐疑的だ。そのような主張は、2007年の中越沖地震でもなされたが、あっさり覆されるのにほんの数年しか要しなかったのだから。とはいえ、今後100年を石油や石炭のような化石燃料に依存し続けるのも困難である。というわけで、自ずと選択肢は収斂されてくる。政治家と官僚はこれまでとは異なるまなざしと語り口で、未来を見据えたまなざしで、ジレンマとしがらみがどろどろずるりと政策を決めてきた過去とは異なる政策の決め方をする必要がある。本書の中で高村薫は半世紀くらいかけて原子力の代替エネルギーへの置換を提案している。50−100年くらいのスパンでエネルギー源転換計画を立てるというのは、理にかなったことだと僕も思う。
原発建設予定地の土地購入問題や活断層の評価をめぐる裁判など、議論があっちにいったりこっちにいったりするところがあり、高村薫や石原都知事のインタビューも混じり、まさに「新聞のスクラップブック」みたいな本で読みづらい。が、そのことはマイナーな問題である。
2008年の段階で原発は大きなジレンマだった。特に地方にとっては原発がある不安となくなる不安に悩まされていた。東京都など都市部は増大する電力需要と、安全面は地方任せというジレンマを抱えていた。今この本を読むと石原知事がなぜ「天罰」と呼んだのかようやく理解ができるような気がする(必ずしも賛意は示せないけど)。新潟や福島の人たちの安全不安のうえに、東京都の人たちは安全で快適な「電気のある生活」を甘受していた。そのことを見て見ぬふりをしていた。このことを石原は苦々しく思っていたようだ。それは、そうであろう。
さて、2011年の今である。中越沖地震では、緊急停止した柏崎刈羽原発を「安全」と呼ぶか否か(運転再開可能かどうか)が議論の焦点であり、住民、関係者の悩みであった。今、このような筋立てで議論を行うのはもちろん不可能だ。もはや原発が「安全上問題なし」と主張する人はさすがにいないだろう。火力発電が「安全」というわけではない。事実、化石燃料は今回の地震でも大きな火災を起した(コスモ石油)。しかし、地震の後の化石燃料の燃焼は一時的な被害で済む。原発がもたらす被害とのconsequenceの差は大きすぎる。「原発は実害を起こしていない、津波のほうがずっとひどい」と主張していた人も、原発のもつ時間的な問題に次第にトーンダウンした。しかし、原発のジレンマの構造そのものが消えてなくなったわけではない。その構造は2008年のときと同じである。
2008年にはまだ民主党政権はなかった。このようなジレンマとしがらみが政策を決めていくのであれば、誰が政権を担当しても同じような判断しかできなくなる可能性がある。そのことは、すでに沖縄の基地問題で露呈している。
大切なのはまなざしである。僕らが向けるまなざしは、自分たちの子どもや孫の世代がどういう生き方をするかというまなざしである。今のそれではない。今後100年、原発は地震や津波を無難に乗り越えることができるような「安全な代物」だろうか。僕には懐疑的だ。そのような主張は、2007年の中越沖地震でもなされたが、あっさり覆されるのにほんの数年しか要しなかったのだから。とはいえ、今後100年を石油や石炭のような化石燃料に依存し続けるのも困難である。というわけで、自ずと選択肢は収斂されてくる。政治家と官僚はこれまでとは異なるまなざしと語り口で、未来を見据えたまなざしで、ジレンマとしがらみがどろどろずるりと政策を決めてきた過去とは異なる政策の決め方をする必要がある。本書の中で高村薫は半世紀くらいかけて原子力の代替エネルギーへの置換を提案している。50−100年くらいのスパンでエネルギー源転換計画を立てるというのは、理にかなったことだと僕も思う。
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