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2011/04/03

コメント

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前回のコメントからだいぶ時間がたってしまいましたが、ご返事します(記事の内容や私のコメントからは話がずれてきた気がしますが)。

>被災地でのみそのリスクがことさらに強調されることが可能なのでしょうか 
 被災地でのリスクとそうでないところのリスクは同じなのでしょうか? 避難所というのは日常生活の場とは大きく異なり、アルコール依存症の方やそうでない方、肝障害のある方やない方など様々な方が狭い空間でほとんどプライバシーのない状態で一緒に生活をしているという空間です。そんな空間は日常生活には普通ありません。当然、リスクも変わってくるはずです。

>何故我々だけが、たまたま被災地にはいないという根拠で被災地の方にそういう「指図」をする権利を自動的に持ってしまうのでしょう。このラテラリティーの根拠はどこにあるのでしょう。
 我々が被災者にならないということが確実ならばそうなのかもしれませんが、誰でも被災者になりうるのであって、その時には同じ立場になるわけです。ラテラリティという問題とは言えないのではないでしょうか? そもそも酒について避難所に持ち込むべきでないという議論が日本で出てきたのは阪神大震災での被災者の経験からだったと私は理解していますが。
 また、「被災者がタバコを吸ったり酒を飲むのはよくない」と述べることは「指図」でしょうか? 確かに西條さんが酒を差し入れたところに乗り込んで「飲むのは良くない」と言って酒を強制的に奪っていったならそうかもしれません。しかし、「被災した時に酒を飲むには通常と異なるリスクがあることを伝え、他の問題も生じる可能性がある避難所に酒を持ち込まないようにすべきという主張を行うこと」を「指図」とは普通言わないのではないでしょうか

 既に酒が持ち込まれている避難所において、一部、問題が出てきているという話を支援されている方々から聞きます。それがどの程度まで広がるのか心配されるところです。

Izsatさま

こんばんは。おっしゃる視点も大事だと思います。社会的リスク、犯罪や暴力の助長という観点からは、たばこにない独自のリスクもあります(あ、これは「比較」の文脈でとらないでくださいね、、、、て面倒くさいなあ、やっぱり)。

酒も「どのくらい」が重要なアイテムだと思います。そうやって利点、欠点、いろんな視点から吟味していけば「どのへんのラインなら適切か」が見えてくるように思います。書きながら思いましたが、これって一種の弁証法ですね。

さて、でもこういった酒のリスク。これって我々の社会でも同じリスクはあると思います。なぜ、被災地でのみそのリスクがことさらに強調されることが可能なのでしょうか。

被災地にいる人たちは、、、たまたま被災地にいることを強いられたわけで、我々と全然優劣関係にはありません。我々は(欲すれば、そして成人であれば)いつだってタバコを吸ったり、酒を飲んだりすることが可能です。さて、たまたま被災を受けたという境遇を強いられたという理由で、「我々が」「お前たちはタバコを吸ったり酒を飲むのはよくない」と被災地の人だけに強制する権利はどこから生じるのでしょうか。彼らには僕らの行動を律する権利はゼロです。何故我々だけが、たまたま被災地にはいないという根拠で被災地の方にそういう「指図」をする権利を自動的に持ってしまうのでしょう。このラテラリティーの根拠はどこにあるのでしょう。

そんなことを僕は考えています。「お酒はほどほどに」「タバコは迷惑の元になるから、場所を考えてくださいね」という「語り口」と比べて、どうだと思いますか?

 西條さんの酒の差し入れについてTwitter上で異議を申し立てた者です。申し立てた者としてのいわば義務かと思いますのでコメントします。
 私は全体としては実は岩田先生の主張されていることについて違和感はありません。ただ、私自身としては以下の点で酒の差し入れに意義を唱える必要性があると考え、行いました。
(1)西條さんのツイートでは「嗜好品は重要」という主張が主になされ、その中に酒を含ませた場合の問題点がほとんど取り上げられていませんでした(少なくとも私が意義を申し立てた時点では)。そのため、避難所に大量に酒を差し入れすることが良いと考える人たちが出てくるのではないか、また、全体的には大量に酒が差し入れされる事態にはならないと思いますが局所的にはそのようなことも起きてしまうのではないか、だとしたら、異議を申し立てるべきではないか、と考えました。

(2)少量飲酒でも継続的に行われるとすれば、それが避難者の心身の健康に大きな問題を生じさせるのではないか。例えば、アルコール依存症の方が避難者にいたとしたらどうなのか。ツイートではそうしたことを配慮していないように感じました。

 定型的な治療にのれない患者さんはいます。臨床場面で定型から逸脱することは、患者さんの立場に立つ時は当然のことだと思います。ただ、それが公に発信されれば他の問題が生じます。

あこさま

いつもコメントありがとうございます。もちろん、感謝しております。
コメントを「スルー」するという表現は失礼に当たるという指摘を受けました。「お返事をしないこともある」という意味でしたが、言葉足らずでした。すみません。ミイラ取りがミイラにならないよう、軽快に愉快にブログを作って参ります。どうぞよろしくお願い申し上げます。

仕事柄?人の話を聞いたりするのが好きで、先生のブログにも興味を持って拝見させていただいておりました。

先生のブログがネガティブな方向で、炎上しないように心から願っています。

コメントに対するスルーはお忙しい先生であれば、当然のことと思います。私も多分、先生に失礼なコメントを多々、そして自分の気分で、書いてしまっているような気がします。

この場を借りてお詫びします。

コメントありがとうございます。僕もよい答えはありません。どんなに善意でやっても誰かの迷惑/苦痛になることはあります。でも、誰にも迷惑をかけないというのはたいてい「何もしない」に等しいのです。

立川談志は落語を「人間の業の肯定」と言っています。僕は、医療は僕らの独りよがりで偽善「かもしれない」という後ろめたさを抱えながら、中腰でやっていくとよいのではないでしょうか。「正しい行為」を希求するとけっこう窮屈になると僕は思います。どうでしょうか?

相馬市へ物資を持っていき、帰りに海岸線を通りました。
3週間経ったにもかかわらず、あまりの状況に現実として消化できませんでした。テレビや動画でさんざん見ていたにも関わらず、現場の圧力は強烈すぎました。

今、この状況を可能な人は見にいくよう提案するかどうか悩んでいます。現地の人にとっても、迷惑でないか。

よろしければ意見をお聞かせください。

おいかわたくみさま

コメントありがとうございます。

コメントは、ご指摘のようにたいていの場合「無意味」です。しかし、時にハッとする気づきもあり、切実な現状報告があり、「まったく無意味」というわけではありません。もちろん、必須ではありません。

僕のブログのサイズ程度ならば、なんとか消化可能なので、そのわずかな例外にこのコメント欄は投資されています。サイズが万が一、内田樹先生のブログ並に大きくなったら、コメント欄は消えるでしょう。「街場の中国論」でいみじくも指摘されたように、人口の小さなフィンランドと人口の大きな中国では「やり方」が異なるのです。

大変真剣な問題提起であったので、しばらく考え込んでおりました。もう何回か読み返して考え直さないと消化できないと思います。

ひとつだけ、頭の悪いことを書きますが、なぜ先生はブログにコメント欄を設けておられるのですか?普段はスルーなさるし、大事な話では高い(?)ハードルをお求めになるし、コメントで何か先生のご意見が左右されるようにも感じられないし、コメント欄はこのブログで「不要」とは言わないまでも「必須」ではないのではないか、と感じてしまいます。

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