きょうは暖かくなりそうだ。ありがたいことである。天はかくも過酷な試練を私たちに与えたが、このような恵みも与えてくれる。日常のさりげない恵みがありがたいことを、僕は学んでいる。
早朝にジョギングする。街が静かである。もちろん早朝だからというのもあるが。通常なら三連休ならものすごい人で混雑するこの街も少し静かになりそうである。久しぶりにきちんと朝食を作る。トースト、自家製リンゴジャム、バジル入りソーセージ、タマネギとトマトとチーズを入れたオムレツ、それに煎れたてのコーヒー。こういう週末の日常も「恵み」である。感謝していただく。
テレビもラジオもつけず、CDでピアノを聴きながらたまった勉強と残務をする。勉強をできるのも「恵み」である。
有責性について考えている。僕はこれまで、原発についてあまりに無関心であった。関心のないままに原発の電気の恩恵を被り、そして今も使っている。原発がもたらすリスクをリアルに背筋に突きつけられたものとして検討したことがなかったのである。その有責性を考えている。
今の政権や東京電力を批判するのは簡単だが、その政権を選択したのは僕らであり、東京電力やその他の電力会社の供給する電力を黙して享受していたのも僕らである。完全に情報が隠ぺいされていたわけではない。調べようと思えば、勉強しようと思えばいくらでも事前に知識を得ることはできた。昨日、それ関係の本をまとめてアマゾンに注文したが、いずれも当然ながら震災前に発行されている。
ぼくが「天罰」とかポロッとのたまう人を批判するのは、そう言うことで、「自分は蚊帳の外である」と言外に規定しているからである。俺は天罰に値しないけど、俺ではない他者は天罰に値する。そういっているのである。震災被害者だけではなく、日本人全体に対して放った言葉だ、、、と擁護する向きもあるが、「俺様」を外しているのだから、同じことだ。
自らの有責性に自覚的でないのは、想像力の欠如のもたらすものである。そもそも想像力こそが、(ほとんど)想像力「だけが」小説家などの創作者の原資であろう。
そういう意味では、すべてを「権力者」のせいにしてろくに勉強もせずにデマを振りまいては「吠え」、反権力者としての自分に酔いしれ、「私は有責ではない」という傲慢のままにいる古いタイプのジャーナリストを僕は軽蔑せざるを得ない。彼らはマス「ゴミ」と罵られても仕方がない。以下にその一例たる岡留の一文である。
http://news.livedoor.com/article/detail/5426342/
もちろん、「もともと原発に関心が高かった人」、「警鐘者」の有責性も考えている。ひたすらに原発の危機をあおる人たちも同罪だ。
危機を煽るデマゴグーが過激に立ち回ると、多くの人は「ひいて」しまう。ああいう知性に疑いを持たせるような、品位のない行為をとる人たちの振る舞いをみて、多くの人は「原発は大事だ。文句を言っているのは過激なファンダメンタリストたちだ」と考えた。今回の危機で「それみたことか」と鼻息の荒い煽動者は多いだろうが、あなたたちもバッチリ有責である。
有責性とは他者に規定される有責性だが、それは恥辱のみならず、愛に規定される。そのことを僕は内田樹さんから、レヴィナスから学んだ。レヴィナスはユダヤ人として大戦時に迫害をうけ、家族を虐殺される立場にありながら、なお自らの有責性を認めたのである。原発の問題。「私たち」はすべて有責である。「わたしでないだれか他人」のことにしてはならない。
以下、内田樹「ためらいの倫理学 戦争・性・物語」冬弓舎 2001から多くをひく。
哲学者の高橋哲弥氏はエマニュエル・レヴィナスの「全体性と無限」を引用して、「おのれの有罪性の認識から出発するアイデンティティの構成」という着想をレヴィナスから得る。レヴィナスは高橋氏は「汚辱の記憶をめぐって」(「群像」1995年3月号)のなかで、「死者への責任とは何よりもまず記憶の責任である」と述べる。
エマニュエル・レヴィナスは、歴史の悲惨の只中から正義を呼び求める「他者」の顔、「異邦人、寡婦、孤児」たちの顔を見、その眼によってみつめられたときの「恥辱」の意識のうちに、ホロコーストの時代の「倫理」のぎりぎりの可能性を見いだしている。おのれの無辜を無邪気に確信する主体は、「他者」の顔と眼によってその思いなしを根底から審問され、自分が無辜であるどころかむしろ簒奪者であり、殺人者でさえあることを初めて発見して自分自身を恥じる。その恥の意識が倫理的責任への覚醒の第一歩だというのだ。
難しい表現が続いているが、要するに自分たちの先達がやったことを自らの「恥」として他者のまなざしを受け入れよ、高橋氏はそう考え、またレヴィナスもそう考えていると主張する。高橋氏はレヴィナスの「全体性と無限」を読んでそう考えた。
しかし、内田さんの解釈はやや異なる。彼は「他者」は厳しく審問し「恥」をもたらすとは限らないと説明する。すくなくともそれだけではない。そこには二重性(レヴィナスのいう他者の「顔」の二重性)があるという。
レヴィナスが拠る「聖書」の教えによれば、私たちが他者と出会ったとき、摂るべき態度は、ときには威嚇する神の前に突っ伏す預言者のように、「理解を絶した言語に聴き従い」、ときには寄るべく飢えた「孤児、寡婦、異邦人」をその幕屋に迎えた族長のように「受け容れ、いたわり、ねぎらい、保護する」かのいずれかでなくてはならない。そうして、古代の教えはこの「他者を(神として、あるいは孤児、寡婦、異邦人として)受け容れる」ことの合意のすべてを、「愛する」というただ一つの動詞のうちに込めたのである。「神を愛し、隣人を愛せ」。 レヴィナスのいう「他者による私の審問」とは、決して裁判において「事件の全貌を究明」する検事のような権力的な身ぶりを意味しているのではない。なぜなら、レヴィナスが「応答責任」を口にするとき、その有責性は私たちに「真相究明」を求めているわけではない。レヴィナスが「私は有責である」と言うとき、それは「私が犯していない非行についての有責性」も、さらには「自分が被害者である迫害についての有責性」さえも含むからである。(中略)「審問」とは、私が犯した過去の非行についての尋問や告発のことではなく、「他者」から私に向かって来る「いま、ここで私に対するあなたの態度を決定し、かたちにして示せ」という「切迫」のことなのである。だから、この「審問」に対して私が応じるべき正統的な回答は、「愛する」、つまり畏怖し、歓待し、聴き従い、慰めることなのである。そして、そのような行動を通じて、「愛することのできるもの」としての「主体」が立ち上げられることになるのである。それがレヴィナスのいう「有責性=応答可能性(responsibilité)」ということの意味であると私は解釈する。(前掲より)
「愛することのできるものとしての主体」、という内田さんの言葉に僕は注目したい。
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