AERAが表紙、および吊り広告で派手に「放射能がくる」と特集を組んだ。
<編集部に恐怖心を煽る意図はなく、福島第一原発の事故の深刻さを伝える意図で写真や見出しを掲載しましたが、ご不快な思いをされた方には心よりお詫び申し上げます。>
とツイッターで謝罪している。放射「能」は来ることができないのだが、まあそれはよい。
僕は、編集部に「悪意」はなかったと思う。ああいう見出しをつけたら読者が喜んで読んでくれると「本気で」思っていたのだろう。そこに、朝日新聞社全体に共通する病理がある。
昨年のがんペプチドワクチンの報道もそうであった。医療者がこういうけしからんことをしている、いてまえ!という論調で東大医科研を批判したら、たくさんの医療者から(僕も含め)強い反発があった。自分たちは正義を貫いて記事にしただけなのに、みんな喜んでくれると思ったのにどうして?と朝日新聞編集部はけげんに思ったのではないか。彼らに全然悪気はなかったと思う。だから困るんだけど。
彼らの論調は昭和の論調である。メディアは場外から「俯瞰する」立場にいて、完全に独立した場所にいる。読者も同じである。場内で何か起きるとこれに警鐘を鳴らすのがメディアである。それに乗っかり「けしからん、けしからん」と怒るのが読者=国民である。
この伝統は、「反権力」の装置として働くメディアの基本構造であった。時の権力の横暴を許すなと「正義のペン」が使われるのである。
しかし、平成の今、真の「他者」はいなくなってきている。すべての人が、メディアも国民も場内にいるのだ。医者を叩けば患者が困る。医者は叩けば場外観衆は手を叩いて喜ぶだろうと朝日新聞は考えたのだろうが、いまや患者も国民も場内にある。医者・病院が倒れれば、困るのは「私」なのだ。
未曾有の大震災においては、日本に住む人すべてが「私」である。ここにはクラシックな「傍観者」はいない。雑誌を読む読者も単なる傍観者ではなく、プレイヤーの一人である。インサイダーたる読者があんなデリカシーを欠く見出しに怒るのは当然である。あれを愉快に思うのはアウトサイダーだけなのである。そして、朝日新聞社は、もはやメディアすら「インサイダー」なのだという自覚がないのである。ツイッターなどのミドル・メディアの発達で、メディアはすでに他者ではない。そのことに気がついていないのである。
病識がないこと。少なくとも内部のステークホルダーたちに病識がないこと。これが朝日最大の病理である。患者に病識がないと、通常は予後は悪い。果たして気づいてくれるだろうか。
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