スーパーローテートの初期研修制度を僕は高く評価している。しかし、スーパーローテートにしさえすればうまくいくというものではない。当然のことだ。医学教育は、いやすべての教育は多様で複雑である。あるxという1ファクターが全ての諸悪の根源だったり、逆に全てのウェルネスの保証になるなんてファンタジーはあり得ない。
○ヶ月の研修では時間がなさすぎて教えられない、という指導医はたくさんいる。僕はそう主張する指導医たちと何百回も(literally)お話してきた。
問題の根っこにあるのは、「こうでなければいけない」という思い込みである。
もちろん、教育における熱意はエネルギーの源泉である。熱意のない教育はありえない。しかし、熱意は思い込みの母でもある。クールな視点もまた必要であり、教育くらい「思い入れ」が「思い込み」に転じやすいフィールドはないのである(あ、これも思い込みか)。
一番多い思い込みは、かつて○年間で教えていたことを○ヶ月に圧縮しなければ、という思い込みである。そんなの無理に決まっている。
昔僕が医学生だったとき、土曜日にあった授業がなくなって授業数が激減したことがあった。「この授業数では教えられない!」と多くの教官が激怒した。ある教官はしゃべるスピードを上げて早送りにした。少ない時間で同じパフォーマンスを示すのは(最初が怠惰でない限り)無理で、無限に広がる医学知識の、どの辺をデリバリーすべきか、根底から考え直さねばならなかったのであるが、思い込みが「これを教えなければ教育じゃない」と強迫させたのである。その割に、授業内容は自分のだした論文の解説(自慢)だったりして、僕ら学生はけっこう白けたのだけれど。
1分時間があれば、1分で教えられることを教えればよい。1時間あれば、1時間かけて教えることを教える。最初からできない、と放り投げてしまったら、思考停止である。与えられたリソースをいかに使いこなすか、というコンセプトはそもそもリソースプアな日本の臨床現場の得意技ではないか。
1ヶ月の研修では何も学べないと主張する指導医も、数日の学術集会やワークショップには参加する。1時間しかない講演を聴く。これじゃカケラほども学べないか?もちろん、そんなことはない。1ヶ月の精神科実習で精神科の全てをマスターできるか?できるわけがないし、する必要もない。彼らはあなたの弟子ではなく、精神科領域のマスター(あなたの分身)を目指しているわけではない。精神科医の視点を合わせ持つ内科医や外科医になるのである。10年経っても1ヶ月の精神科実習は無駄にはならない。精神科経験ゼロよりもはるかに大きな財産である。少なくとも、そういう視点から有効に実習すれば、である。
僕が受けた3ヶ月の外科研修、2ヶ月の産婦人科研修、1ヶ月の麻酔科研修、5ヶ月の小児科研修、6ヶ月の集中治療、1年の救急はいずれも今でも大きな財産である。3ヶ月の外科実習で学ぶ最大の学びは、「俺は外科学のことが何にも分かっていない」という自覚である。この自覚がないと、無知である自覚すらないまま、外科医の悪口を言うような内科医になってしまう(こともある)。無知の無自覚くらい恐ろしい無知はない。
だから、うちの感染症内科は学生でも研修医でも、それぞれのニーズに合わせて歓迎する。1日なら1日、1週間なら1週間、3ヶ月なら3ヶ月の学びがある。その期間の勉強では彼らは感染症のプロにはとうていなれないが、「感染症診療はかくも難しい」ことは体感、納得くださるだろう。3ヶ月研修生は亀田時代からたくさん見てきたが、「ああ、感染症についてはよく理解しました」と去っていく医師はまだ見たことがない。その先に果てしない広い世界が(僕もまだ見たことがない地平が)広がっていることを自覚するからである。それが成長というものである。全くうちの診療を見たことがない人よりは、はるかに大きく成長してくださる。
前提を疑うことは、科学の大きな属性のひとつだ。医学においても例外ではない。前提を疑う。思い込みから自由になる。これを学ぶという。学ばない指導医がどうして研修医を教えられようか。
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