質的研究の概要を非常にコンパクトに分かりやすくまとめた本。また、その周辺にまつわる構造主義、構造構成主義、現象学といった概念も実践的な研究の営為のコンテクストの中で解説している。読みやすく分かりやすい。
最大の問題は本書のテーマであり帯にもある「質的研究は科学であり、エビデンスをもたらすものであるという確信」を本書がもたらすかという点である。そのポイントは95ページの「質的研究での一般化について」にあると僕は思った。
引用
これまで述べてきたように、質的研究では「研究者と情報提供者の認識構造の同一性または同型性」を暗黙の前提としており、(中略)すなわち、どの個人であれその認識構造は「母集団の構成員では胸痛であり、個人は母集団を代表している」と考えられる。
すなわち、我々の心・脳構造に存在する大部分の概念は、同一の共同体に属する人々に関しては共通すると仮定できるので、仮に任意に選ばれた少数例を情報提供者とする質的研究の結果であれ、その一般化について議論する必要はほとんどない
引用終わり
僕は、「議論する必要」は大いにあるのではないかと思う。前提を疑うのは科学の営為の第一歩だからだ。むしろ構成員によってその概念構造はまちまちである、というのが構造主義を支えているのではないだろうか(ああ、こんなこと書いたら哲学やってる人たちにボコボコにされそうだなあ、、、、でもそう思うけど)。
そもそも、量的研究ですら、サンプルが母集団を代表していると考えてよいかどうかには大いに疑問がある。統計学的にその正当性を担保しても、そうである。それは昔々にポパーが看破した通りで、帰納法が正しいという保証はどこにもないのだ。あるのは正しさに対する近似だけである。本書の構成は、量的研究のロジックを援用することで質的研究の科学性を担保しようと試みている(ように僕には見えるが、間違ってたらごめんなさい)が、量的研究の科学性はそこでは担保されないと思う。
むしろ、抽出されたサンプルが母集団を代表していない可能性をきちんと認識し、そして吟味する先に質的研究の科学性は保留(保証ではなく)されるのだと思う。この辺は、「患者様が」医療を壊すでも少し書きました。でも、こういう科学性の議論を真正面から取り上げるのは大事なので、(そしてまだ決着付いていないと思うので)これからも繰り返し議論したらよいと思う。末尾ですが、拙著「思考としての感染症、思想としての感染症」も引用していただき、感謝です。
最大の問題は本書のテーマであり帯にもある「質的研究は科学であり、エビデンスをもたらすものであるという確信」を本書がもたらすかという点である。そのポイントは95ページの「質的研究での一般化について」にあると僕は思った。
引用
これまで述べてきたように、質的研究では「研究者と情報提供者の認識構造の同一性または同型性」を暗黙の前提としており、(中略)すなわち、どの個人であれその認識構造は「母集団の構成員では胸痛であり、個人は母集団を代表している」と考えられる。
すなわち、我々の心・脳構造に存在する大部分の概念は、同一の共同体に属する人々に関しては共通すると仮定できるので、仮に任意に選ばれた少数例を情報提供者とする質的研究の結果であれ、その一般化について議論する必要はほとんどない
引用終わり
僕は、「議論する必要」は大いにあるのではないかと思う。前提を疑うのは科学の営為の第一歩だからだ。むしろ構成員によってその概念構造はまちまちである、というのが構造主義を支えているのではないだろうか(ああ、こんなこと書いたら哲学やってる人たちにボコボコにされそうだなあ、、、、でもそう思うけど)。
そもそも、量的研究ですら、サンプルが母集団を代表していると考えてよいかどうかには大いに疑問がある。統計学的にその正当性を担保しても、そうである。それは昔々にポパーが看破した通りで、帰納法が正しいという保証はどこにもないのだ。あるのは正しさに対する近似だけである。本書の構成は、量的研究のロジックを援用することで質的研究の科学性を担保しようと試みている(ように僕には見えるが、間違ってたらごめんなさい)が、量的研究の科学性はそこでは担保されないと思う。
むしろ、抽出されたサンプルが母集団を代表していない可能性をきちんと認識し、そして吟味する先に質的研究の科学性は保留(保証ではなく)されるのだと思う。この辺は、「患者様が」医療を壊すでも少し書きました。でも、こういう科学性の議論を真正面から取り上げるのは大事なので、(そしてまだ決着付いていないと思うので)これからも繰り返し議論したらよいと思う。末尾ですが、拙著「思考としての感染症、思想としての感染症」も引用していただき、感謝です。
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