昨日は宮崎哲弥さんの番組収録。予防接種などの話をしました。今週金曜放送らしいですが、登録していないので僕は見ることができない。ま、YouTubeに流れるかも知れませんが。それにしても、橋下知事とかもそうでしたが、テレビで鼻息の荒い人って、実際会うととても謙虚で人当たりがよいですね。多様性が作る医療のよさとか、可能性についても語っているので、よかったら見てください。
で、ここではその多様性の話。お題は基礎医学、研究、大学、医局
この4つは混乱して議論されることが多い。それは、過去においてこの4つのオーバーラップ面積が大きかったからである。研究とは基礎医学研究のことであり、それを支えていたのが医局制度と大学病院であった。が、各々は別々のカテゴリーに属する別な言葉である。言葉が何に属するかは、最近「プロタゴラス」を読んで深く考えさせられた。ソクラテスってとてもイヤらしい人ですが、勉強になりますね。
日経メディカルオンラインに九州大学の横溝先生が、「基礎医学の教授に医師がいなくなってもよいのか(よくない)」という寄稿が為されている。非常に重要な提言だと思う。
基礎医学は重要である。基礎医学の勉強をきちんとしていないがゆえに、臨床行為が「浅く」なっていることをよく見る。例えば、解剖学、例えば生理学。若手医師は僕らの世代やそれ以上に比べて、おおむね臨床能力(いろんな意味で)は高いが、その点だけはちと弱いな、と思う。まあ、トレードオフな面もあるから、ある程度は仕方ないんだけど。
今、(僕が勝手に作ってるんだけど)HIV勉強強化月間中で、毎朝通勤時にUCSFのHIVレビューを聴いている。iPhoneでレクチャーを聴いて、iBookでPDFを同時に流し見るというやり方だ。本当はiPadのほうがやりやすいんだろうけど、今買うのはさすがにあれなので、買ってない。昨日はanal dysplasia/cancer、本日はHIV研究の最前線であった。HPVの包括的な勉強は日常診療上の問題解決型の勉強ではうまくできない。ワクチンもよく理解できなくなる。こういうダイダクティックな勉強は定期的にやっておくとよい。HIVについても、僕が学生のころは、gag, pol, envみたいに勉強していた。APOBEC3G(最近、なんでも3Gだな)とか、vif, tat, rev, nefなんて全然知らなかった。これを知ったからといって今日からの診療がなにか違ってくるわけではないけれど、ときどきこういうことをやっておくと「脇があまくならなく」なる。臨床医になっても基礎医学のレビューは時々やっておいたほうがよい。このレビュー、とても高くつくが、直接行くよりは安いし内容はグレートなので、コスパはよいと思います。
ただし、基礎医学を学ぶことと、基礎医学の研究をやることは同義ではない。
横溝先生は、最近は専門医をとるのが大変だから、博士号をとる人が減ったという。それは違う。昔の臨床研修が甘すぎたのである。臨床なんてちょっとやれば、ちゃんと学ばなくてもできるよ、という甘さがあったのである。だから、そこそこに病院で患者を診て、大学に戻って、基礎の教室に放り込んでもらって研究やって博士号を取って、大学病院で研究をやりながら(片手間に)臨床をやって、その後開業、、、というどっちつかずのキャリアパスが成立したのだ。そういうキャリアパスがいけないとは思わない(その点、僕は一部のファンダメンタルな家庭医とは意見を異にする)。が、そういうキャリアパスしかない、というのはよくない。
僕が基礎研究をやらないのは、基礎研究を軽んじているからではない。逆である。基礎研究者を間近にみて、その素晴らしさを知り、他者に対する敬意を強く持っているからこそ、片手間に首を突っ込む不遜は慎んでいるだけである(片「手」間に「首」をつっこむって、変な日本語だな)。
逆に、臨床も片手間にはやってほしくはない。ちょっと数年の臨床経験でもって「私は臨床を知っている」とか言わないで欲しい。そういう中途半端な経験がかえって仇になっている基礎研究者や官僚を残念ながら僕は散見する。中途半端に見聞きするくらいなら、むしろ(ソクラテスのように)全く知らないという自覚の元に知らないほうがまだましだ。10年以上やっていても、僕には、まだ臨床医学の何たるかは全然分からない。クリニシャン・サイエンティストと自称するひとの9割くらいは、普通のサイエンティストであり、クリニシャンではない(あなたのことではないので、怒らないでね。あなたはその「1割」に入っていると思っていてください)。同じサイエンスでも、臨床医をやりながら臨床研究は可能であるが(これも実に困難であるが)、とりわけ、基礎研究と臨床医療を並列させるのは、超人的な能力と努力を必要とする。どちらも秀でている人を僕はほとんど知らない。
なんとなくどれも中途半端で均質的だった日本の医者のキャリアパス。これからはだんだん多様性が広がっていくだろう。これは僥倖ととるべきである。
幸い、どこも人手不足だ。基礎医学の領域も、臨床医学の領域も、行政も、公衆衛生も人が足りない。臨床医学でも、臨床研究、地域医療、病院医療などなど、余っている領域は少なく(あるにはあるけど)、卒業生の選択肢はたくさんある。今は博士号ー>専門医という流れになっているけど、逆に専門医が増えればその価値は相対的に下がる。アッドオンとして、博士号を取りたいという人も今後は増えてくるだろう(なにしろ、トラベル・メディシンの認定証とったり、外国でマスターとったりする人も増えているのだから)。30過ぎてから大学院に入る人もこれから増えてくるだろう。人の寿命は伸びているのだから、それはそれでよいと思う。僕みたいに、通信制で勉強して臨床研究やったり、西條さんのセミナーにでて質的研究をやったりする人も出てくるだろう。僕は、基本的に選択肢が多いのはよいことだと思う。多様性があることそのものが、価値である。
僕は基礎医学が再度勃興することを強く望んでいる。基礎医学がきちんとしてなければ、臨床医学も廃れてしまう。が、昔に戻れはありえない。「博士号」という定型は手段であって目的ではない。博士号をめぐる基礎と臨床の「共犯関係」は、もう戻ってこないのだ。
あと、医局は上記の問題とはまったく別である。医局にいろいろな利点があるのは承知しているが、ダークサイドもまた多い。これも昔に戻れ、ではだめである。医局のいちばんよくないところは、大学病院と民間病院の力関係を作ってしまうことである。大学病院が(その質とは関係なく)強くなってしまう、偉くなってしまう(ような錯覚を植え付けてしまう)ので、かつての医局制度を僕は好きではない。
大学病院にいることと、(いわゆる)医局に属することは同義ではない。
そんな選択肢が本当にあるのか?もちろん、ある。神戸大学病院感染症内科には「いわゆる」医局員はいない。ビジョンのために人が集まり、大学病院でのミッションのためにたくさんの仕事・勉強をしてもらう。ミッションを終え、卒業すると人が出て行くが、ヒモはつけない。応援はするが束縛はしない。もちろん、困ったときは駆け込み寺としてレスキューはするし、居場所としては確保する(この昔の医局の美点は残しておきたい)。アラムナイとしての緩くて暖かい人間関係は残すが、ヒエラルキーは作らない(ま、会ったら敬語くらいは使ってもらうけど、たぶん)。もちろん、あっちへとばしたりこっちへ振り回したりもしない。そんな医局的でない医局である。
よかったら、皆さんも来てみてください、うちの感染症内科。数日でも、数年でも。
すばらしい臨床医でありながら、基礎医学の大切さもしっかりと理解されている。
そんな岩田先生に、是非、読んでいただきたいのが、森博嗣「喜嶋先生の静かな世界」
純粋な、「研究の美しさ」が、結晶となって輝いていて本当に傑作だと思います。
投稿情報: Yosh | 2011/02/16 17:06
岩田先生
いつも興味深くブログを拝見しております。私は、臨床医9年目にして基礎を始めた者です。
基礎医学の深遠さに関する先生のご意見は、私も強く同感するところです。臨床医としても未熟な自分が基礎を始めるのはいかがなものか、と思うときもあります。
しかし、日本は非常にレベルの高い基礎のデータがあっても臨床に結びつかなかった歴史があり(別にそれだから悪いということもないのですが、そういう側面があることは事実です)、基礎データをうまく臨床へトランスレーションしていくためには、基礎と臨床双方をある程度、知っている人間が必要だと思います。また、この役割は、医師にしかできず、残念ながらPhDには難しいと思います(臨床を経験することができないから)。実際に、私もまだ半年ですが、基礎と臨床側のコミュニケーションがうまくいくことはもちろん、お互いの足りない部分を少しずつ(相手が何がわからないのかがわかるようになる)補填することで、全体として、共同研究が進みました。
つまり、私自身のキャリア、技能の向上には、双方をやることは決して良くないのかもしれませんが、私のような人間が橋渡しをすることで、一つでも創薬なり、世の中に還元できるのであれば、それは素晴らしいと思っています。
現代のゲノム医療・個別化医療の時代で、自分ひとりで成し遂げられることは、極めて少ないのではないか、と思う今日この頃です。
投稿情報: 小野麻紀子 | 2011/02/16 10:03