主に60年代までに吉本隆明が書いた文章のコンピレーション。これに中沢新一の解説がつく。こちらは彼の「三位一体」論が主だ。
80年代後半から90年代にかけて、僕はマルクスを読まねばならない、という渇望を必要としない時代に育った。イギリスの労働環境の劣悪さがエンゲルスやマルクスに共産主義思想の萌芽をもたらしたように、労働者としての吉本が敗戦後にマルクスに邂逅したようなかたちでは、邂逅できない。たしか僕が「資本論」を何だかよく分からないまま流し読みしたのは大学5年生くらいのときだが、それは「ナニワ金融道」が面白かったから、というしょうもない理由であったし、同時に併読していたのが「戦争と平和」だったという、今から思いだすとマジなんだかギャグなんだか分からない読書をしていた。
吉本隆明の文章は、サロン的である。文章は多くの<>で満ちている。<自然>、<宗教>、<疎外>というのは、君たちが通俗的な意味で使う自然、宗教、疎外のことじゃないから、そこのところ、考え違いしてもらっては困るよ、という目配せがある。おまけに、インサイダーにしか分からない仮想敵との論争がある。だれをどんな根拠で罵倒しているのか分からないので、門外漢には「きょとん」である。どうも通俗的な<マルクス>主義者も「反」<マルクス><主>「義」(者)もしゃらくせえ(こういうギャグ、「さるマン」でやってましたね)、という感じらしいが、そこには内田樹さんのいう「ご存知のように」と誰かがしたり顔で語るときの、門外漢お断りの口調がある。「全ヨーロッパでも指をかぞえるほどのものしか」理解できないマルクス(111p)なのだから、分かったふりをしてもらっては困る、という切実なる主張が作品のあちこちから伝わってくる。
僕は村上春樹がそうであるように論壇には興味がないので、文芸誌や思想誌は読まないし、論争にも興味がないし、学生時代に吉本も浅田も全然読まなかった。いつも自分のペースで読書するしかない。なんでいまどき吉本で、なんでそれもマルクスなんだか分からないけど、とにかく寝る間も惜しんで一晩で読んだ本であることが、この本の僕にとっての価値を表していると思う。
80年代後半から90年代にかけて、僕はマルクスを読まねばならない、という渇望を必要としない時代に育った。イギリスの労働環境の劣悪さがエンゲルスやマルクスに共産主義思想の萌芽をもたらしたように、労働者としての吉本が敗戦後にマルクスに邂逅したようなかたちでは、邂逅できない。たしか僕が「資本論」を何だかよく分からないまま流し読みしたのは大学5年生くらいのときだが、それは「ナニワ金融道」が面白かったから、というしょうもない理由であったし、同時に併読していたのが「戦争と平和」だったという、今から思いだすとマジなんだかギャグなんだか分からない読書をしていた。
吉本隆明の文章は、サロン的である。文章は多くの<>で満ちている。<自然>、<宗教>、<疎外>というのは、君たちが通俗的な意味で使う自然、宗教、疎外のことじゃないから、そこのところ、考え違いしてもらっては困るよ、という目配せがある。おまけに、インサイダーにしか分からない仮想敵との論争がある。だれをどんな根拠で罵倒しているのか分からないので、門外漢には「きょとん」である。どうも通俗的な<マルクス>主義者も「反」<マルクス><主>「義」(者)もしゃらくせえ(こういうギャグ、「さるマン」でやってましたね)、という感じらしいが、そこには内田樹さんのいう「ご存知のように」と誰かがしたり顔で語るときの、門外漢お断りの口調がある。「全ヨーロッパでも指をかぞえるほどのものしか」理解できないマルクス(111p)なのだから、分かったふりをしてもらっては困る、という切実なる主張が作品のあちこちから伝わってくる。
僕は村上春樹がそうであるように論壇には興味がないので、文芸誌や思想誌は読まないし、論争にも興味がないし、学生時代に吉本も浅田も全然読まなかった。いつも自分のペースで読書するしかない。なんでいまどき吉本で、なんでそれもマルクスなんだか分からないけど、とにかく寝る間も惜しんで一晩で読んだ本であることが、この本の僕にとっての価値を表していると思う。
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