ずっと楽しみにしていた内田樹先生の最終講義。神戸女学院大学に行くのは初めてである。30分くらい前には会場入りしたが、すごい人でいっぱい。補助席も出して二階席も埋まり、、、最終講義でこんだけ人を集める教授というのもすごいですね。
その様子はこんな感じ。
http://togetter.com/li/91886
講義は自らと神戸女学院大学との歴史に始まり、いかに自分がこの大学で祝福されてきたかを振り返られた。その後、教育論に入る。ルールではない教え、ペナルティを課すのではなく励ます、支援する、寛容な教え。フェア・アンフェアという半ちくな概念を振り回さない教えの大切さが説かれる。
ここから話がヴォーリズの建築とからめての教育論に移る。内田先生はむかし、大学を評価したシンクタンクに「資産価値がゼロの」ヴォーリズの建物と岡田山キャンパスを売ってしまい、新しい土地に大学を移転せよ、という市場主義社会的な提言に激怒し、それ以来市場原理主義と決別することに決めた。そのヴォーリズの建てた講堂は薄暗く、明かりが少ない。そして建物を出るととても明るく大きな風景が広がっている。それは暗闇から産道をでる赤子のようである。感性に訴え、innovationを促すとき、この「校舎が人をつくる」という感覚が大切になる。
あとで散歩したけど、本当に神戸女学院大学は美しいキャンパスをもっており、しかも複合的な建築である。仏検受けたときの関西学院大学に似てるな、、とか思っていたらやはりこちらもヴォーリズだった。神戸女学院散歩が過ぎて迷子になりました。
ここで師のレヴィナスからタルムードの教えに移る。テキストが読者に固有のリズムをもって語り始める、自身の実存をテキストにねじ込んでいくという学習のあり方が説明される。
ここから、リベラルアーツとはなにか、の話になる。それは孔子の論語にある六芸(りくげい)に集約される。六芸は、礼、楽、射、御、書、最後に数である。礼について、存在しない形でのみ存在する死者について、死者とのかかわりについて、その人固有の「礼」について話が続く。存在しないものにメッセージを出し、存在しないものからメッセージを受け取る。射とは弓を射ることで、これが武芸における身体性を象徴する。さかしらを捨て、「それが弓を射る」。御は異類とのコニュニケーションである。
音楽も言葉も時間を射程に入れた概念である。我々に聞こえる音は「今」の音だけである。そこには過去の音は存在せず、未来の音もまだ見えない。しかし、我々は存在しない過去の音を了解し、まだやってこない未来の音も予知しながら、咀嚼して「音楽」も「ことば」も受け入れている。
最近京大で講義をしたとき、鼻息の荒い経済学部の学生に「文学部は必要なのですか?」という絡みの入った質問をされたときの話。学者とは存在しないもの、そのノイズを察知しそれにかかわっていくことこそが学問であり、経済学でうまく説明できない「欲望」のようなものに対して真剣に考えていく。欲望が計測できなくても、そこには欲望はある。既存の測定技術で計測できないからといってそれを無視してしまうと、そこに学はなくなる。学問とはつまり、いま見ることのできないものを見ようという営為だからである。理系の人間が面白い話をするのは、そこに見えない現場においてそのやりくりをする「見えないもの」に対する真摯な姿勢と行動があるからだ(この辺は僕の勝手な解釈も混じっています、、、ごめんなさい)。
学者とは自分の言っていることの正当性に常に不安を持っている。その正当性を担保するために全てのリソースをすかって正当性を構築しようとする。自分の言っていることの正当性を構築する努力もせず、それが正しいと当然視するようになったらそれは学問ではない。
最後に愛神愛燐という美しい言葉が紹介され、マタイの一節が朗読されて講義修了。本当に素晴らしい言葉であった。
このあと茶話会。沢山の人がごった返す中、お茶とケーキをご馳走になる。ここで迷子になった後、宝塚ホテルで歓送迎会。最初に奥様の小鼓も交えての能の披露、そのあと飯学長、平松大阪市長、平山克美さん、高橋源一郎さん、関川夏央さん、中沢新一さん、茂木健一郎さん、、、とビッグネームがどんどん続く。みんな話がむちゃくちゃに面白い。でも個人的にご挨拶すると丁寧でシャイな印象を受ける方が多かった。その後、内田先生のむかしのスライド披露や元ゼミ生たちの隠し芸披露などがあり、大幅に時間オーバーしての会のお開きとなる。
体が疲労するが頭は冴え渡り、胸は何かではち切れそうになっている。そんな心持ちで帰宅の途についた。内田先生、21年間ご苦労様でした。ありがとうございます。
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