いまをときめく池上彰さんとサンデル先生の対談がでている、と教えてもらい、週刊文春を買った。ほとんど次号の発売直前で書店にも置いてなく、3件目のキオスクにぽつんと置いてある1冊をようやく買えた。なるほど、雑誌も電子版にしてiPadでバックナンバーが読めれば便利なのに。
もっとも、日本の新聞や雑誌の記事はその場限り、その後責任取らずのいい加減なものが多いから、それでは困る諸氏も多かろう。いまでも図書館に行けばバックナンバーは読めるし、高い金を出せば新聞記事はオンラインで読めるが、そのハードルは恐ろしく高い(普通の人には)。学術論文もリトリーブしやすくなっていい加減なものは書きにくくなった。二重投稿なんてすぐバレる時代である。過去の新聞記事を自由に閲覧できるようになったら(今みたいに中途で勝手に削除するのではなく)、新聞記事もずっとまともになるはずだ、たぶん。
サンデル先生は自分がこう考える、と飲み込むのではなく、その授業の中から自分の頭で考えて欲しい、と述べていた。まさしくその通りなのだが、この言葉をすっと咀嚼できた人が日本にどのくらいいただろうと思う。サンデル先生を通じて自分が考える機会にすればよいのだが、どちらかというと、その口調はサンデル先生を「褒める」か「けなす」かのどちらかなのではないだろうか。
今はサンデル先生絶賛の時である。そして、ちらほらと「ケナス氏」の声が聞こえる。いつかこの声が大きくなり、サンデル・バッシングが起きるようになる。間違いなく起きる。こっけいなくらい、日本のメディアはその点に関しては(他の点もそうだけど)定型的だ。
このからくりは非常にシンプルだ。全ての人物、全ての思考、全ての事物、論文、学説、、、何でもよい、、には長所と欠点がある。かならずある。全能の神みたいなものは存在しないし、また仮に存在していたとしても「その全能さが鼻につく」という人もいるだろうから、やはり批判の種になる(この場合は批判というよりルサンチマンだが)。そして時系列において、事象について「好ましいもの」のみを抽出したのが「絶賛」である。絶賛ばかりしていてそのネタが尽きると、残されたのは「好ましくないもの」だけになる。マスメディアは沈黙することができないから、何かしゃべり続けなければならない。残された「好ましくないもの」を用いてたたく以外に方法はなくなる。持ち上げ方が激しいほど、その持ち上げる時間が長くなるから、たたくディメンジョンにシフトする可能性は大きくなる(大した事象でなければ軽く褒めたディメンジョンのままフェードアウトするチャンスも大きい)。有名になればなるほど、絶賛されればされるほど、たたかれるチャンスは大きくなる。
これを回避する方法はいくつかある。ある時点で意識的に自らフェードアウトすることが一つ。これはミスチルのようなアーティストがテクニカルにやっている。マスメディアが沈黙し、しゃべり続けないのも一方だが、これはマスメディアが存在し続ける(どのような形であれ、マスメディアが死に絶えることはまずない)限り無理な相談だ。最後に、メディアの語り口そのものを変えるという、批判のあり方を変えるという方法がある。ここには期待したいが、さて。
「ねじまき鳥クロニクル」をようやく読了する。とくに「3」は非常に重厚で息が詰まるようなエキサイティングな体験だった。場面が変わり、語り手がどんどん変わるので途中から読み直すとき自分が度の世界に住んでいるのか分からない、夢から覚めた直後のような違和感がある。人物の正体やシチュエーションは意図的に明かされず、村上春樹もそれを意図的にやっているのではないかと感じられる。90年代に読んだこの本を、もう一度この時間に読み直せて本当に良かった。
で、長い前振りはどこにつながるかというと、「ユリイカ」である。僕は普段文芸批評を読まないが、村上春樹特集をやっていたので衝動買いでぽち買いしてしまった。さらさらっと読んだが、なんとも陰鬱なる気持ちになった。
伝統ある文芸批評誌に文学の素人がこんなことを言うのはなんだが、困ったものだ。これなら村上春樹が「批評」をいっさい読まないのも無理はない。
そこにあるのは、あげつらい、憶測、断罪、決めつけの世界である。そして好悪と是非の混同である。
特にひどかったのは「福田和也×斎藤環×市川真人」の対談。そこでは、井戸端会議のようにあれをやってはけしからん、こんなものはくだらないという個別非難(もはや批判、critisismとは呼びにくい)があり、揚げ句の果てには村上春樹が身体を鍛えているのが、俺は体鍛えないから分からない、みたいな八つ当たりにまで至っている。売れている作家がよほど憎たらしいというルサンチマンもそこにはかいま見られるが、さすがにそれは恥ずかしくて口にはできない(そもそも、村上春樹が売れているから「ユリイカ」が特集を組むのであって、それを言っちゃあおしまいなのである)。
それはamazonにおけるKAGEROU叩きとほとんど構造的に変わりのない世界である。戦後昭和世代の知識人の旧い語り口がこんなところで綿々と生き残っているのには驚いた。なるほど、日本の文芸批評や文学が衰退するわけである。
都甲幸治は「想像力を欠いた狭量さ 「1Q84」におけるジェンダー表象」のなかで、「海辺のカフカ」に出てきた図書館のフェミニストの書き方が酷いのがけしからん、フェミニストに失礼だという議論を展開する。しかし、ある対象を酷く書くのがけしからんという論法が成り立つのなら、村上春樹にはどうにもいけ好かない「邪悪な」人物は必ずでてくる。それを論拠にするのなら、村上春樹はダイハードで厚顔な、警察官差別者であり、私立探偵差別者であり、国会議員差別者であり、そして強烈なNHK集金人の差別者である。だが、フェミニストはNHKの集金人には言及せずにジェンダーの問題にのみ集約する。まるで他の対象が存在しないといわんばかりである。そして、この都甲氏そのものがまったく自らの論調と同じ論調で村上春樹を「想像力がない」と批判するのである。どういう批判の構造であろう。
何かを書くとは、価値を伝達することである。それは書き手の価値であり、読み手の価値である。読者は書き手の価値を読み取り(読み取ろうとし)、読み手の価値と照らし合わせる。そこには好意的に受け止められるものもあれば、否定的に取らざるを得ないものもある。その否定的にとれるものすら、価値である。いや、それがなくては心を揺さぶる文章にはなりえない。
大切なのは狭量にならないことではなく、狭量さへの自覚にほかならない。「カフカ」では「圧倒的な偏見をもって」行動に出よ、というせりふがある。それは自らの狭量さへの深い自覚を持って、それでも勇気を持って誤解を恐れず自分の言葉を持つということである。思うに、文芸批評誌やamazon批評、2chなどでのコメントの「軽さ」と「くだらなさ」に共通するのは、この「狭量さへの無自覚」なのである。猪瀬直樹が新聞を読まない若者をバカ扱いしているが、それは彼がそのような「自分の好みの世界にしか興味を持たないオタク的若者」の狭小さとそれへの無自覚にうんざりしているからだろう。その気持ちはとてもよく分かる。しかし、その猪瀬氏自身がそういうせりふをはくことで「自らの狭量さへの無自覚」を吐露していることは皮肉である。そもそも、新聞を読むと視野が広くなるのだろうか。むしろ、その理路が定型化する意味で、逆ではないだろうか。
内田樹さんの「村上春樹に、、、」を読むと、あるいは村上春樹自身の小説や音楽に対する批評を読めば分かるが、こういう人たちは自分の狭量さに非常に厳密に自覚的である。「これはあくまで、僕の好みに過ぎないのだけど、、、」という語り口をしばしば村上春樹はする(うろ覚えだけど、大体こんな感じ)。それは自らの立場や見解の持ち方に相対的であり、俯瞰的である「大人」の態度である。
僕が「予防接種、、、」に「白髪の小児」と書いたとき、何人かにその「小児」の意味とは何かと問われた。小児的であることそのものが「白髪の小児」を規定するのではない。小児的である(好悪によってものごとを判断する自分がいる)という自分に自覚的であり、俯瞰的であるもう一人の自分が自らを眺めている成熟度があり、そしてその成熟差に萎縮しないでそれでも自らの意を語る勇気であればその人は「大人」である。
「ユリイカ」特集もダメダメだったわけではない。村上春樹論の終焉 そして象が平原に還った日(付 「村上春樹論ベスト5&ワースト5」) / 栗原裕一郎は非常に面白かった。これはユリイカで展開される村上春樹論の強烈なパロディーであり、相対化であり、俯瞰である。
そうそう、これは読んでいて気がついたのだけど、批評家の語り口は「俺の言うことが分からないやつは、みんなバカ。だから知らん顔」と自分の取り巻き、自分の賛同者以外は全て無視、という語り口である。そういう世界で生きているからである。医者は、「俺の言葉が分かんない」と言われれば「ほっときましょ」とはいかない。「分かるようになるまで」手を変え品を変え、語り続けなければならない。あるいは、相手(たいていは患者)の世界観に照らし合わせたやり方で語らなければならない。村上春樹があの巧みな「例え」を、読者が分かりやすくなるための工夫である、と聞いた時、彼は「ヒョウロンカ」ではなく、臨床家というか、実践家のマインドを持つ人なのだなあ、と嘆息したのである。
というわけで(何がというわけでやねん)、今日は東京でICNにレクチャーである。HAICS研究会主催の感染症学の話。これが正しい感染症、これが間違った感染症、という語り方をしない「考えるICN」へのメッセージです。楽しんでください。
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