物を書いていると、「それは差別語だ」「差別的表現だ」と難じられることがある。
こういうとき、僕が感じるのは徹底的に圧倒的に、嫌悪と軽蔑の感情だけである。こういう半ちくなことを言われると、心底うんざりする。
僕が子供のころ、母親は小説をカセットテープに吹きこむボランティアをしていた。目が悪い人でも読書を楽しめるように、というものである。ところが、ある小説に「めくら」という言葉があって、そのボランティア団体はこれを別の言い方に変えるよう規定していた。昔の話だが、このように記憶している。
僕はその時それを聞いてあきれかえったものである。第一に、それは盲目の人間が「オリジナルな小説ではどのように表現されているか」知るチャンスを奪っている。知らぬは彼らだけであり、そこにラテラリティーが生じる。第二に、「めくら」という言葉が使われたその経緯や文脈を、目が見えない人間には斟酌して理解して判断する能力がない、と目の見える側が勝手に判断したことになる。要は、バカにしている。これくらい差別的な行為はない。
僕はある本で、テレビドラマのドクター・ハウスを紹介し、「彼はびっこをひいて」と書いた。これが問題視された。問題視した、ということは「びっこをひく」ことそのものに差別的な文脈をかぎとったからなのだろう。
腰椎穿刺をするときの有名な格言に「腰椎穿刺をしようかな、と迷ったときが腰椎穿刺をするときだ」というものがある。逡巡そのものがそのインディケーションなのである。同様に、「この表現は差別的なのではないか」と逡巡したことそのものが、その人に差別的な感情、意識が内包されていることを看破しているのだ。
僕にとって、「彼はびっこをひいて」という物言いは、「彼は頭をぼりぼり掻いて」とか「彼は懐に手を入れて」といった使い方と全く構造的に同じである。完全にニュートラルな表現だ。そこに差別的な匂いを嗅ぎ取る人だけが、それを問題視するのである。
僕は子供の時、自分の身体的特徴を嗤われ、いじめられた長い経験を持つから、身体的特徴を嗤われることがどのくらい人を傷つけるかよく承知している。人をあざ笑ったり、さげすんだり、身体的特徴を嗤うことには人一倍神経質だし、それを心の底から嫌う。
が、このような言葉の揚げ足取りをするのは多くの場合当事者ではない。「子供は差別的だから、子どもと表記しろ」とヒステリックに言ってくるのはほぼ100%大人だし、「びっこ」はけしからんと口角泡を飛ばして糾弾するのも、びっこを引いていない連中だ。彼らこそが自らの差別的意識、差別的感情に気がついていないのである。こんなやつらに四の五の言われる覚えはない。
愛情の有無はその相手をおとしめる表現を自然にでき、また許容できるかにかかっている。「火炎太鼓」で道具屋の妻が夫に「おまえさんはバカなんだからね」というとき、そこには夫に対するこれ以上ない慈しみ、愛情が込められている。「あなたは認知機能に若干の、慢性的な機能低下を認めています」なんて妻に言われたら、その夫婦はとうのむかしに終わっている。イギリス人がフランス人を「フロッグ・イーター」と読んではばからないのも、両者の信頼関係が強固であることを示している。日本人は朝鮮人をさして「いぬぐい」とは絶対に絶対に言わないのも、両者の間に全くといっていいほどの信頼関係が築けていないからなのだ。それさえあれば、どのような呼称も全く問題にはならないのである。このことは、「どう呼ぶべきか」と頭を悩ませる行為そのものの差別性を如実に示している。
海辺のカフカの、大島さんのせりふを再掲する。
「僕がそれより更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う<うつろな人間たち>だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めてふさいでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ。つまり早い話、さっきの二人組のような人間のことだよ」
「ゲイだろうが、レズビアンだろうが、ストレートだろうが、フェミニストだろうが、ファシストの豚だろうが、コミュニストだろうが、ハレ・クリシュナだろうが、そんなことはべつにどうだっていい。どんな旗を揚げていようが、僕はまったくかまいはしない。僕が我慢できないのはそういううつろな連中なんだ」
「想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない」
「現代霊性論」での、ある市が六曜の載ったカレンダーを全部回収した、という話を聞いたエピソードを聞いた時男内田樹さんのことばも再掲したい。
「僕はその新聞記事を読んだとき、かなり激怒しましたね。その抗議した市民に言ってやりたい。じゃあ、あなたはカレンダーに曜日が印刷されていることにも反対するのか、と。だって、七日に一日安息日を設けるというのは、ユダヤ=キリスト教の定めた戒律ですからね。その人が自分の家のカレンダーを「曜日のないカレンダー」にしているというのなら、話はわかる。子どもの通う学校や、自分の勤め先に「日曜日に休むのは宗教儀礼でおかしいじゃないか。教育やビジネスに宗教を持ち込んでいいのか」と主張して、日曜も休まず出勤して断固闘っているというのなら、話はわかる。でも、自分はそんなことしていないわけでしょう。自分が現実に生活している場所での宗教儀礼は見過ごしておいて、関係ない他人の宗教儀礼に文句をつけるというのでは、ものの理屈が通らないでしょ。僕、こういう半ちくなこと言う人間が虫酸が走るほど嫌いなんです」
「びっこ」「めくら」「つんぼ」「外人」差別用語だと知らされるまでは普通に使っていました。差別用語と認知してからは意識して使用しないようにしてます。
知らずに口にする人もいます。それは話しの筋で分かりますし、神経質になるところでもないかと聞き流します。 ただ私は誰かを傷つけることになる可能性があるのならばできるだけ使わない表現で伝える配慮をします。 言葉とは、認知とは、、、難しいですね。
これとは別に、言い得て妙な言葉、味のある表現、大好きです♪
投稿情報: 千紘 | 2010/12/20 00:07
私は心の病があって休職中なのですが、他人から「気違い」と呼ばれるのは、やはりつらいものがあります。
浅い理解ではなはだ恐縮ですが、私の心の中に精神障害者への差別意識があるから「気違い」と呼ばれるのが嫌だ、ということになるのでしょうかね?
投稿情報: おいかわたくみ | 2010/12/19 21:36
先生 こんにちは。
深い内容ですね。おっしゃること分かるような気がします。
ちょっと主旨からずれてしまうかもしれませんが。
【「火炎太鼓」で道具屋の妻が夫に「おまえさんはバカなんだからね」というとき、そこには夫に対するこれ以上ない慈しみ、愛情が込められている。】
人は誰でも「上品な部分と下品な部分がある」ように思います。愛嬌であったり、愛おしさの裏返しであったり、いわゆる江戸っ子気質のようなものであったり。関西弁は下品に聞こえることもありますが、心は温かいと感じることがあります。
一歩引いて、その場面を考えると、時々気づくことがあります。その背後にある深い絆や信頼関係のようなものに。
投稿情報: あこ | 2010/12/19 20:41