BAKUMANを読み直している。本当、この漫画は燃えてしまう。表現形は全然違うが、かつてのジャンプ漫画の魂がそのまま残っている。たいていは表現形ばかりまねして魂がなくなっちゃうものだが。
日本の漫画はどんどんおもしろくなっている。昔の漫画もおもしろかったが、いろいろな意味で今の漫画の方が絶対に質が高い。新聞やテレビがつまらない言い訳として、価値観や選択肢の多様化で説明してはいけない根拠の一つだ。彼らは要するに、読者や視聴者を減らしてでも質を確保しようという覚悟がないだけなのだ。BAKUMANには、「分からない読者は分からなくてもよい」という良い意味での覚悟がある。
バクマン。 10 (ジャンプコミックス)
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先日、ある悩み事について内田樹さんに相談した。僕が家族以外の誰かに人生において誰かに相談するということは極めてまれなことだ。あ、事物のティーチングは別ですよ。例えば薬のことは薬理学のプロに教えを請う。書類の書き方は、書類の書き方に長けた人に頭を下げて、そのまま教えられたやり方をまねる。こういうときは教えられたとおりに忠実にやる。
僕の言っているのは人生相談の話だ。
他人に相談して何かよいアイディアが出る、というのは幻想に過ぎない。だから、心の底では僕はワークショップなんかの価値はほとんどなく、自分一人で考えた方がずっと効率がよいと思っている(身も蓋もないけど)。
ほとんどの人は現在の価値、今の価値、そして「自分の立場」でしかものを考えない。未来の価値、自分以外の立場も俯瞰してものを語ることができる人は極めて希有なことだ。しかし、たいてい決断に困ったときは未来について決断するときだ。そのとき、「俺の経験では」と言われても従来型のアイディアしか生まれてこないのである。もちろん、「俺の意見」が有用だったことはあるが、それは偶然そうだったのであって、他人のアドバイスを聞くことが何かの成果を保証することはない。
対談は楽しい。あれは「俺の立場」「俺の意見」を素直に聞く場所だから。他者の言葉を他者の言葉として聞くところだから。「俺はそうは思わない」なんて野暮なことは対談では言わない。むしろ僕の持てない見解や知識や経験、「他者」を体感するのが対談の醍醐味だからだ。したがって、これは人生相談とは別のものである(結果的に影響を受けることはもちろんあるけど、それを「目的」としてはいけないのだ)。
だから、逆に学生とか研修医に人生相談されても困ってしまう。「自分で決めるしかないよ。俺の経験は他人に役に立つとは限らない」と思ってしまう。それでは不親切なので、なんとなくお茶を濁したことは言うが、お茶を濁す程度の意味しかない。「俺はこうしてきた」とは言えるが、「おまえはこうするべきだ」とは言えない。「俺はこうしてきた」は「おまえがどうするべきか」について何の意味も与えない。そう僕は思う。まねだけはしない方がよいと思うけれど。
それでもまれに、家族以外に相談したくなるほど壁にぶち当たることがあるのですね。内田さんはこれ以上ない、適切なアドバイスをくださいました。見ている方向が余人と全然違うのですね。
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